歴史と傳統の街 香 椎 を 語 る
 まえがき
 ご紹介する回想録は、元香椎公民館第4代館長(昭和55年4月〜昭和59年3月)
故本郷辰雄氏が生前(昭和56年頃)にご執筆され、香椎町の歴史を紹介された「歴史と伝統の街、香椎を語る」という小冊子を転載させていただきました。
 原本は約30年前の青焼きコピーの文面で、解読不能な箇所が多々有りましたが、地域の方々のご協力を得て完成することが出来ました。
 また、長い間眠っていた香椎史をご提供くださいました方々に感謝申し上げます。

 お断り
 文中には、現在では、配慮すべき表現、用語等が含まれておりますが、文面のオリジナリティーを尊重し、そのまま編集しております。

                                            平成22年3月10日
                                            記述編集 柳瀬英昭



 本文
 我が香椎は、古来皇室の崇敬篤き香椎宮の鎮座ましますところ、また万葉以来幾多の古歌にも歌われ、由緒の地として今日に及んでいる。

 昭和56年1月元旦、私は戦後36年の間、毎年元旦には、三日月山に登り初日の出を拝み新年を迎えることとしている。静淑と荘厳の山頂に立って、感無量に浸りながら眼下の香椎の町を眺める時、三日月山は私の心の友である。そして、私のこころを慰めてくだされる美しい山でもあり、私に香椎の歴史を語ってくだされる。年ごとに変わりゆく香椎の町を眺め、静かに目を閉じると懐かしい昔の想い出が浮かんでくる。

 それは、私の小学校時代(大正10年)の三日月山(別名=陣山)の楽しい春の遠足である。当時昼食の弁当と言えば、竹の皮に大きな握り飯に、スボ付き蒲鉾、味噌付けコンコンは上弁当で、その他にタマゴ焼きでも付けば最高のご馳走であった。

 香椎の発祥の地は三日月山の麓、大字香椎の長谷と聞いている。長々と続く谷間に、点々と藁葺きの農家があり、明治10年香椎小学校の分校として長谷校が発足したが、昭和6年3月長谷分校は廃校され香椎小学校に合併された。私の記憶で民家と同じ藁葺きの校舎で現在、黒木重蒼氏の屋敷にあった。また、長谷の住民の殆どが昔の立花城の武士の末えいと聞かされた。
 明治22年に町村制が実施された。当時は香椎村、浜男村、下原村、唐原村と呼称していたが、各村が合併し大字として香椎村が発足した。当時の戸数は367戸、人口は1850人と記されていた。初代の村長が秦省三氏で、助役が田代巻三郎氏であった。そして糟屋郡香椎村として行政の創立を見た。今から94年前である。

 明治27年には大字浜男291番地に、香椎村役場庁舎が落成した。そして村は区制となり長谷、香椎、浜男、下原、唐原の5区とある。
大正5年4月に大字浜男230番地(老人憩いの家の下)の、旧小学校跡に2階建瓦葺きの新庁舎を建築し役場は移転した。
 この役場に大正、昭和にかけて長い間、香椎の行政が続けられたが、昭和27年2月老朽のため廃舎し国鉄より買収の大字浜男、西鉄香椎駅前の鉄骨3階建の洋館に香椎役場を移転させた。
 しかしこの立派な町役場も昭和30年福岡市に合併し、不必要になり解体されて現在では市民の自転車置き場になっている。

 香椎の発展の基礎は昭和の初期、西鉄電車線(当時は博多湾鉄道汽船(株)(現西日本鉄道(株))の開通と、海岸埋立地の拡張が進み、昭和12年頃には海岸線埋立地を貫通する新国道2号線の新設完了である。

 この工事には、数多くの朝鮮の人々の働きによって出来上がり、また、多くの犠牲者が出たことを記憶している。舗装道路が出来、唐原ー浜男ー名島ー箱崎ー新博多駅にと続いた2号線で香椎の中心部浜男を始め、町内一般に非常に交通に恵まれるようになり、今後一層の隆盛が期待されるようになった。

 私の少年時代の想い出は、この埋立地一帯の海岸は磯ものの宝庫として有名であった。香椎潟の海岸は昔から遠浅の海岸で、大潮時には遠く名島の妙見島近くまで潮が引く事がある。そして、アサリ貝は勿論、白貝、玉の貝、大貝等数多くの貝が獲れて、シーズンになると近隣の人々が潮干狩りに来て浜は黒ゴマを播いたようだった。当時、浜男の家並みに、貝を軒下で売る家が多く見られた。記憶によると、アサリ貝が山盛り1升で15銭位で売られていた。

 埋立地が完了すると共に西鉄が香椎球場を建設した。現在の福岡銀行香椎支店のある所である。この頃野球熱は旺盛で、春日原球場では、プロ野球が盛んに行われていた。香椎球場では、主に学生野球と社会人野球が開催されていた。当時全国高等専門学校野球大会は、東京六大学野球と比べられるほど有名であった。国内の高等学校専門学校は勿論、遠くは台湾、朝鮮、大連、上海等の日本の植民地の学校からも参加して香椎の町は大変な賑わいを呈した。
 社会人野球では、八幡製鉄所の4番打者、大岡選手のホームランの打球が外柵を跳び越えて海へ落ち、満場の拍手を博したものである。また、学生野球では佐賀高等学校の岡本投手の名声は今に記憶に残っている。
 その後、香椎球場でもプロ野球が行われるようになった。当時の巨人軍のスタルヒン投手と吉原捕手との名コンビや、セネターズの苅田選手は一流スタートして名声を博していた。この球場のスタンドは、夏ともなれば絶好の夕涼みの場所となって、横には香椎券番があり芸者の夕涼み姿も乙なものであった。

 香椎の町と言えば香椎宮である。香椎宮の期限は古くから、神功皇后がこの地で崩御されたときく。香椎の歴史と伝統の中心は香椎宮である。戦前の官幣大社香椎宮の社殿は数多く記されているが、香椎宮の本殿は香椎造りと言われ、現在国の重要文化財の指定を受けている。
 香椎宮を語れば限りがないが、涼風を送る並木、香椎参道(勅使道とも言う)は戦前大正11年当時皇后陛下が御参拝された記念と、又香椎宮と大分県の宇佐八幡宮には10年ごとに、天皇陛下の勅使が派遣されるのを記念として作られた道である。香椎宮まで700bの参道は、春から夏にかけて新緑の映える楠木が繁るこの道は、昔は御神幸式のみ使用された道と聞いている。現在も2年毎に春季大祭は、神幸式が4月16日と18日と決められている。この楠木は、私が小学校時代に全国津々浦々の青年団員の社会奉仕で、運ばれて植えられたものである。60年の年輪には、当時の若者の汗と油の結晶がしみついているようだ。

 香椎宮の境内に神木の綾杉がそびえ立っている。この杉は、神功皇后が平和の標として
剣、鉾、杖の三種を埋め、その上に鎧の袖に付けていられた、大陸の杉の枝を刺立てられた。その杉の枝に根が付いて、今日の喬木となり社前に聳えている綾杉である。この杉の葉をよく見ると、普通の杉の葉と違っている事に気づいている人は希である。
 香椎ではこの綾杉の名を使って、綾杉醤油(藤野家)、清酒綾杉(県庁前の中尾家(下原出身))、焼酎綾杉(渡家、春海屋の本家)等がある。

 神木綾杉の木陰に新古今和歌集の
  千早振る香椎の宮の綾杉は
神の御衣木に立てるなりけり
作者は不明のこの一首を刻んだ歌碑があるのも有名である。

 また、香椎宮参道の国鉄鹿児島線の踏切りのところの香椎宮頓宮への登り口左手に、福岡市でも最も古い万葉集歌碑があるが、明治36年に建立されたものである。

 いざや児ども 香椎の潟に 白妙の
  袖さへぬれて 朝菜つみてむ

 香椎は福岡地区でも、古くから歴史に登場した地名の一つで、古代から栄えた地である。 香椎の名は、その昔神功皇后が、亡くなられた仲哀天皇の棺を立て掛けたシイ(椎)の木が香りを放ったことから、香椎の地名が生まれたと言うロマンを秘めている。また浜男の地名も、神功皇后が三韓出兵の時に、この地の浜で男の姿になられたことによって、浜男の地名となった。その他に兜塚、鎧坂等数多くの地名がある。
 香椎には香椎宮の末社として、武内神社の他稲荷神社に浜男には浜男神社、下原には大年神社、唐原には須賀神社がある。また香椎潟の海の中に鎮座する神として、御島神社があるが、少年時代は農家の人々が雨乞いの神様として、田植えが終了すると毎年大潮時を期して小舟で渡り祭りを行い、帰りに磯物を土産としていた。特に御島の貝の味は格別で有名である。

 私の小学校時代(大正9年〜昭和2年)は、香椎小学校児童数400名余りであった。校長は占部伴蔵先生に和白出身の小林市助先生であった。
 現在では昔の小学校の面影は何一つ残ってないが、体育館横の丘を見るたび想い出すのが、高等小学校の農業教程の実習である。正門から肥桶をかつぎ、途中の坂道で紐が切れて下肥(糞便)を浴びた想い出や、収穫の野菜を町に売りに行ったものだ。

 また、農業実習地について昭和40年浜男地区の有志で、納骨堂建設計画が進み新開墓地(現在香椎小学校グラウンド横の墓)改葬するため、香椎出身である東京の故桜井少将夫人(当時83歳)宛に改葬趣旨書を送った返信の中に故郷香椎を思う度に気に掛かる事は、香椎小学校に貸していた農業実習地の跡地が現在誰の所有権になっているのか? 戦時
中海軍省からの要請で、博多海軍航空隊士官宿舎の用地として貸していたが、終戦と同時に海軍省に返却を要求したが何の沙汰もなく現在に至っていると記されていた。私は小学校に行く度に桜井少将夫人の事を思い出す。
 小学校時代の恩師の想い出は、桜井先生(戦後秦姓となられる)である。戦後香椎の婦人会の組織強化に尽力され活躍された人である。
 また、生存者の中には新宮町町長をされた安武文夫先生と和白の松尾ミヨ先生がいられる。松尾さんは、現在でも元気で東区衛生関係の役員で活躍されているときく。

 昭和2年頃、浜男の片男佐の海岸に「香椎花壇」と云う料亭が建設された。これは当時の知名士、太田清蔵氏が建てられたもので、その落成式に地区住民が招待され盛大な催物が実施され、町民が見物に行った事を想い出す。潮湯の設備にも立派な大宴会場に、豪華な宿泊設備も完備したものであった。
 現在の博多逓信保養所筑紫荘が「香椎花壇」の敷地に建てられたのである。

 この頃から香椎は急速に栄えてきた。大正12年には国鉄香椎駅前に香椎郵便局が移転された(現在の積分館書店)。
 香椎郵便局の歴史は古く、明治12年香椎村大字香椎2133番地(現在の香椎マンション)に7等郵便局として郵便取り扱いが開始された。
 初代局長森程次郎氏(唐原出身で庄屋の家系)が就任された。大正11年には電信電話が開始され、電話交換事務は大正13年から始まり当時の加入者は、1番から45番までで開通した。電話の1番は香椎宮であった(現在1001番)当時の加入者の門前には白地に黒地で電話番号が記入された木札が掲げられた。私たちの小学校6年生の頃だ。  電話の急速な普及によって、浜男の商工会議所が主になって、芸者の券番が出来たのはこの頃である。6人余りの芸者がいて、毎日三味線の音が流れるようになる。香椎は勿論郡内近郊の青年達の関心が高まり、浜男の町は歓楽の町と化した。
 その券番の面影と言えば、今の公民館横の酒造組合の事務所の所にあった。

 また香椎の町は地理的に恵まれた地で、昔から往来の中心地として旅人達の宿場の町でもあった。
 従って香椎には旅館(旅人宿)が多くあった。西から福田屋(本郷岩吉)、角や(吉村猛)、川口屋(浜地秀吉)、岩井屋(安部末吉)、大丸屋(本郷七蔵)、みどり屋(御田銀六)、名島屋(真田繁太郎)、博洋館(荒巻)、松屋(船越)、香栄館(桜井興吉)、常磐屋(木下卯之吉)、八百重(和田重太郎)、魚久(本郷タマ)、三代屋(青谷)等があった。
 香椎には有名な眼科医(田原養全)、現在の田原龍彦氏の厳父で、患者も九州各地は勿論遠く四国地方からも患者がきてこれ等の旅館で1ヶ月も、長くて半年も滞在したものである。笑い話に、田原眼科院の有名な表言として「金は田原、目は養全」と言うこときいていた。
 今の香椎花壇は故古賀仁右衛門氏が建築されたもので、当時から生魚料理は近郷に知られていた。

 昭和の初期、香椎にも温泉旅館が生まれた。
現在の香椎温泉(森氏)である。山林に囲まれた旅館で博多の奥座敷として客が多くあった。温泉と言えば昔から下原に草場温泉(安武氏)があった。これが現在の三日月温泉(荒巻氏)の前事である。農繁期を終えたら、老人たちの憩いの泉場として親しまれていた。

 また、香椎の山々は戦前まで松茸の産地としても有名で、秋のシーズンになると博多の街から松茸狩りの客で、山から流れる三味の音で賑わったものである。
 松茸は赤松から生えるので、現在の福岡女子大付近や、長谷の山からも多く獲れた。国鉄香椎駅の東側の山も多く生え、私の父が管理していたので幼い時から父に連れられて立ち入り禁止の縄張りの手伝いや、番小屋で一夜明かした想い出もある。これらの山も、現在は山手1区の町内で最も環境に恵まれた住宅地となった。

 香椎に公民館が開設されたのは、昭和24年である。当時の館長は町長が兼任することとなって、黒木久作氏が就任されていた。公民館主事には、役場の書記の熊本為保氏であった。
 占領下の日本にGHQの特令で、社会教育法が公布されて、第20条の基本が現在でも生かされ運営されている。
 当時香椎公民館には次の分校組織があった。長谷分館(森孫八郎)、香椎分館(稲永光雄)、香椎荘分館(木下敬次郎)、浜男分館(森興藏)、下原分館(秦隆助)、唐原分館(崎村保)、香住ヶ丘分館(松尾四郎)の各氏であった。

 大正元年香椎にも青年団処女会が組織されて、糟屋郡の各種の大会で活躍したものであるが、その中で剣道で常時優勝し香椎の剣道と云えば郡内でも有名になった。
 大正9年に香椎村婦人会が結成されたが、昭和になって愛国婦人会全国婦人会に分かれ、軍事色濃厚で各地で活躍したが敗戦と同時に解消した。
 戦後は世相の混乱が青少年の不良化非行が憂慮すべき時期となり、婦人会は母親の立場から再出発する必要性に迫られ、世論の盛り上がりで新しい婦人会が結成され、初代会長として秦ナヲ先生が就任されて目覚ましい活動をされたが目的達成を半にして昭和40年頃、時代の流れにおされて自然解散することになり本当に残念である。

 現在の県立香椎高等学校は大正10年3月糟屋郡民の教育に対する熱意で郡立糟屋実践女学校として呱々の声を上げ翌大正11年4月早くも県立高等女学校に組織を変更し香椎高等女学校と改名され県に移管した。定員400名で発足し当時女の高等専門学校と言えば珍しい事で、近郷の豊かな家庭の師弟たちが紫の袴での登校風景を想い出す。その第1回卒業生と言えば現在香椎公民館でサークルの生け花の先生大村さんと記憶している。
 福岡女子大学(香椎町大字浜男)は戦後文部省の新学制施行に伴い福岡市薬院堀端(現在の新天町)の福岡県女子専門学校を大学に昇格させ昭和25年に開校させたのである。 戦後香椎には各高等学校が建設されたが、それに伴い唐原に九州産業大学の開校を見て、香椎の町は名実共に文教の街として栄えてきた。
  
 香椎における戦前戦後の主たる事件を紹介すると、明治44年立花山の官有林の払い下げ事件で当時村長田代百太郎氏を初め収入役に書記2名が逮捕され、それぞれの体刑を受けた事件である。
 また、昭和4年の総選挙では横山雄偉氏の買収事件で村会議員2名そのほか10名余りが検挙され、村議を失格しその他罰金刑に処せられ、当時としては香椎では大事件として取り扱われた。
 5・15事件の関連で香椎温泉で謀議した事件も有名である。神武会会長大川国明の昭和維新の急進思想の流れを汲む九大の右翼学生グループ数名は昭和4、5年頃から香椎温泉をアジトとして民間団体少壮将校らと気脈を通じてしばしば会合し5・15事件直前には民間団体の巨頭井上日昭、樋口孝三郎、頭山秀三なども参加40余名が会合してテロを謀議した事件である。
 昭和7年浜男の町に放火事件が続発した。そして町民を恐怖に落とし入れた事件である。1、2回は幸いに大火にならず消し止められたが駅前の○○家の場合は全焼した。当日は香椎宮の春季大祭日で浜男には恒例の芝居小屋を建てられ旅芝居の興業中の夜の出来事である。犯人は○○家の近くに住む若い青年ですぐに逮捕されたが少し精神に異常のある者で同家は他郷に引っ越されている。本人も70を超された事と思う。

 当時の消防団は団長の事を組頭と言って旧式な腕用ポンプの時代である。私たちは消防組の醤油買と言って使い走りをさせられていた。これを機会に消防組は自動車ポンプを購入した運転免許を持っている者は3名で火災時の出動が心配された。みんな故人になられたが橋口善太郎、木下保それに友人の橋口一であった。糟屋郡では箱崎町につぐ2番目の所有町となった。
 戦後の事件よしては唐原の夜景団が集団殴殺事件を起こした。大変な騒ぎとなり、当時唐原の青年団員が犠牲になって起訴されたが町議会の減刑嘆願の結果いずれも懲役3年、4年の執行猶予を言い渡され事件の決着を見た。
 昭和26には役場の収入役石川氏の失踪事件が起こり町民を驚かしたが40日余りで自宅の防空壕の中から家人によって自殺死体で発見された。原因は精神衰弱によるものと聞いた。
 また昭和25年頃石炭ブームの波に乗って香椎のアチコチに二、三の小炭鉱が出来て石炭採掘が行われた為に鉱害により浜男を中心に500戸余りが渇水異変に見舞われ3000余名の町民が飲料水がない困苦に悩まされた事件があったが福岡通産局と折衝の結果簡易水道を敷設する事で妥結した。

 香椎で初めてラジオを据え付けられた人は明石三平氏である。
 昭和5年頃だったと思う。大きなラッパからJOAKと東京から流れて初めて聴くラジオ、初めて見るラジオに住民たちは毎晩明石宅を訪ねたものである。(現在の香椎川横の石田宅)
 糟屋郡・郷土新聞として香椎の武井東天(茂樹)氏が毎月発行し郷土紙として特色を発揮された事が有名である。
 武井氏は無欲な人に愛され香椎の武井と言えば郡内でもその名を知らぬ人はないほどだった。戦後も自給振興機関紙として郷土紙の使命を遂行され将来を期待されていたが昭和35年鉄道事故で負傷されてそれが原因で病死され香椎小学校で盛大な有志葬が執行された。
 その他の事件では香椎町署の全焼事件や下原の浄光寺全焼事件がある。

 戦後の香椎は急速な発展をなし、現在の香椎は百万都市福岡の東の副都心として大きく浮かび上がり待望の福岡市地下鉄と西鉄宮地岳線との結びつきももうすぐ。バスを含む交通網の再編成国鉄香椎駅を含む中心部の壮大な再開発プランも持ち上がり近来的な副都市としていま香椎は注目の期待を集めている。
 昭和52年には香椎の人口の増加に伴い小学校校区が分離され香椎東小学校が発足した。 早くも4ヶ年目を迎え香椎宮裏手にサニータウンの大型団地の完成が急がれている。また同区には昭和56年には市立公民館建設が決定され地元で建設委員会も発足した。

 生まれ変わる香椎、新しい生活圏の香椎だがここで問題なのは街の発展に力をそそぐ余り自然の保護がどうしても疎かになり勝ちなところである。
 わかっていながら街の発展に自然破壊へとつながって行く昭和56年2月から香椎の中心部も町名が変更される。
 香椎は都心のビル街と違うのである。香椎独自の発展をとげてほしいもので海の中に立っている御島大鳥居が香椎の象徴であるように今後の香椎の発展を望みながら見守っていくこととする。
                                                終わり

  香椎町の歴史を,地域の人々の記憶をたどりながら調べてるうちに、故本郷辰雄氏の前記の回想録を手にする事が出来ました。
 「まえがき」にも書いておりますとおり30年程以前の青焼きコピーで、しかも、何回もコピーされ、文字も所によっては薄く、見えにくい部分さえ有りました。地域のいろいろな方々にご相談し、前後の文章から文字を割り出した部分もございました。

 この回想録を公開するには多少躊躇しましたが、新しい史実を発見することができるかも知れぬと思い公開することとしました。
 これからも香椎史を探求し、後生の人たちに残して行きたいと考えております。香椎校区の皆様のご協力をよろしくお願いいたします。

  故本郷辰雄氏は私が40年間お世話になった同じ職場の先輩であり、父の同僚でもあります。私が香椎の歴史に興味を抱いたのも、何かの繋がりかもしれません。

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      柳瀬 英昭
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