和白・その地域


   上和白     下和白    三苫    奈多 


和白には五つの地区がありました。 
上和白 ・ 下和白 ・ 塩浜 ・ 三苫 ・ 奈多 
*織田・豊臣期には、筑前国糟屋郡和白村の地名が見られ、慶長年間に上和白と下和白に分かれたようです。
■旧和白村の始まり
明治22年4月の「市町村令」により上和白 ・ 下和白 ・ 塩浜 ・ 三苫 ・ 奈多の五つの村が合併し和白村になりました。
■和白地域の移り変わりをたどってみますと、藩政時代(江戸時代1600年〜1867年)から明治元年(1868年)を経て明治22年までは、上和白 ・ 下和白 ・ 塩浜 ・ 三苫 ・ 奈多の五つの村がありました。
明治22年4月(1890年)「市町村令」という法律が出来施行されるに当たり、5ヶ村が合併し、和白村になりました。これが糟屋郡和白村の誕生です。(写真:左)
 
 
更に6年後の昭和35年8月26日(1960年)福岡市に合併し和白町の名称がなくなり、福岡市東区和白となりました。(当時人口約6,000人)(写真:右)
宅地の開発
       美和台団地 昭和47年完成
       高見台団地 昭和48年工事〜49年完成 
人口の推移
明治22年人口と戸数   平成25年9月の人口と戸数  
上和白村   64戸 336人  和白東  5,399戸  12,108人 
 下和白村 49戸  262人  美和台  6,661戸  15,694人 
 塩浜村  35戸  188人 和白  4,975戸  11,273人 
 三苫村  92戸 490人  三苫  3,807戸   9,278人
 奈多村  262戸 1,363人  奈多  4,032戸  9,179人 
合計   502戸 2,639人  合計  24,874戸  57,550人 
 
「和白とは」
@和白は会議、議会を意味する言葉。
A神功皇后遠征の際、軍の評議場が島見山(現在・和白4丁目付近)に作られたという言い伝えがある。
B和白の地名については、ワ・シル⇒ワジロを考えられ、ワ「曲」は海岸線の湾入をいい、シロは(汁)が転じた語音で、曲がり込んだ湿地帯を表している。
和と白は好字をあてたものと考えられる。
 

「三苫水道」昔は海だった和白地区

 
@和白一帯は博多湾を望む丘陵地にあります。
この辺の土地は4000年の間、隆起と堆砂により10メートル高まり、1300年ころの博多湾の沿岸は現況の5メートルの等高線まで海であったといいます。
A博多湾から新宮の湊に通じる地域は三苫水道と呼ばれ、三苫・奈多一帯を三苫島、東側(美和台側)を東浜、西側(三苫側)を西浜、また相の浦から塩浜を巡った一帯は桂潟と呼ばれていた。 

古の奈多浜・歴史散策 
探訪概要
 
 
 奈多団地について
@昭和56年(1981年)4月 1088戸完成
A東西560メートル 南北300メートルの大団地
B現在 1,114戸 1,200世帯
 空から見た奈多地区の変遷
 
             昭和23年(1948年)                                昭和41年(1966年)
 
             昭和50年(1975年)                               平成19年(2007年)
 JR奈多駅
集合場所
 
JR奈多駅について
明治35年(1902年)5月奈多〜土井間、12月に奈多〜西戸崎の鉄道工事に着工。
明治37年1月 奈多駅(現在の雁ノ巣町内公民館前)

明治37年12月 和白駅開設
明治38年 宇美まで開通⇒博多湾鉄道の時代となる。
 宝塚海岸
ほうづか
 
宝塚と書いて「ホウズカ」と読む
@糟屋や宗像南部からの、福岡藩への御用米の集積場であった。
A馬は二俵の米を背に宝塚浜へ集められた。
B御用米倉から、船1そう38俵を積んで、荒戸の福岡藩へ運んだ。
 この地で有名な方々
 浜田屋⇒今林氏 古枡屋酒造場⇒浜崎氏
Cこの地は貝島炭坑関係の別荘地が在った。
「海岸から見る景色」
@海岸から見た雁ノ巣飛行場(水上飛行機用斜路(スベリ))(下の写真右中央)
A照葉の高層マンションや「海の中道大橋」を望む。
雁ノ巣飛行場は「福岡第一飛行場」と呼ばれ、最盛期には「第日本航空」によって、朝鮮、台湾、中華民国(中国)、東南アジアへの路線も開設された。
戦前における日本最大の民間国際空港であった。
戦後アメリカ軍が使用していたが、飛行場部分は昭和47年(1972年、雁ノ巣空軍施設全域は昭和52年(1977年)に変換され平成14年(2002年)まで格納庫は残っていた。
新開堤防の施行 
元禄16年(1703年)黒田家の権臣、大野忠左ェ門貞勝は藩命により「奈多、塩浜」間を施工。
宝永元年(1704年)全て藩財を用い、奈多の住民からの負担を取らず完工。
和白、三苫の人々を移して塩浜村を起こし、堤防内に塩田30町歩を開く。
この堤防を「元禄築堤と呼ぶようになりました。