2014.03.10 |
平成26年5月15日の和白奈多地区の探訪実施を受けてコース下見を行いました。 当日は奈多グループの会員と「さんぽ会」の会長、そして奈多町中からは地元の方のご案内で説明を受けながら予定のコースを巡ってきました。 |
奈多の高台に在る西福禅寺 |
志式神社境内にある志式座 |
志式座で行われた「奈多祇園祭」wajico 06より転載 |
訂正 ③名島城三の丸跡 ②名島水上飛行場跡 |
福岡市職員が企画した名島探訪(25/10/26) 10時~2時間程度 |
9月12日から18日までかいさいされました 2年に、一度の御神幸行列の、9月12日の(お下り)の出発のときの写真です 放生会は、全国的にも、秋祭りの始まりです 福岡・博多では、初秋で、出てくる果物で、秋を知らせる祭りで、 梨も柿も放生会といいます。 露天が参道に軒を並べ、食欲をそそる焼イカ、トウモロコシ等の、香りが漂っていました 沢山の参拝者で、、賑やかな放生会でした さんぽ会 吉村一紘 |
山ほめ祭」は古く「かりすなどりの御祭」と称され、春の4月15日と秋の11月15日に行われています。 |
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下和白・大神神社 祭神 大者主神(おおものぬしかみ)(大己貴命(おおなむちのみこと)) 由緒 『産神(うぶすなかみ)なり 祭る所・大己貴命なり 祠は村の東、林中にあり上和白村より勧請せり 年歴つまびらかならず 社内に田神社あり』【「筑前国続風土記附録」より】 *社殿裏に「うしろぐち古墳」あり。未発掘(2007年) ◆ミニ鳥居 2005年西方沖地震で破壊。柱部分2本を残すのみとなっている。 *和白地区で最古の鳥居 地元古老の話 慶長五年(1600年)より以前の創建、すなわち立花城の家臣、安河内延昌(下和白安河内氏の祖)が下和白を領して、この地に移り住んだのが元亀二年(1571年)ごろとすれば、今より四百数十年前の昔、上和白村より勧請、祭祀されたものと判断される。 |
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下和白大神神社入り口 |
2005年西方沖地震で破壊 |
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長楽山円相寺と相ノ浦 浄土宗鎮西派 長楽山 円相寺 所在地 和白丘一丁目十番四八号 開祖は博多一行寺住職四世応誉といい、元和元年(1615年)に創立された。 初め相ノ浦(現和白五丁目地内)に在ったが元禄年間に現在地に移転したと伝えられている。 古老の話によれば元和元年浄土宗円相寺が相ノ浦に建てられ、その後下和白に移転、『北ノ上』の円相寺跡地に二代目の住職の墓があり、安貞様と呼ばれ、円相寺より祭りに来られていたという。 |
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長楽山 円相寺 |
現在の円相寺 |
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安河内虎昌、下和白を領有 安河内虎昌は1570年(元亀元年)頃、立花道雪から下和白を拝領し、移り住んで来た。これは文献にはないが、次のように推測される。 1567年9月8日宗像大宮司氏貞の軍勢が新宮浜より上陸、和白郷に乱入して民家を焼き払う戦闘が起きた。 宗像勢は陸路と海路の双方より立花城を攻撃した。為に道雪は新宮浜より敵の侵入に備えて、安河内三郎左衛門虎昌に下和白を与え、海への備えとしたものと考えられる。 安河内家邸内の不動明王(1698年) 下和白安河内元邸(和白丘一丁目)には、その昔殿様の休息用に豪邸を建てた記録が残されている。そして殿様のご来遊の時の安全を祈って邸内に「不動明王」が祭られていた。 |
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安河内家邸内の庭先に見える不動明王の祠 |
不動明王の祠 |
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安河内邸 |
邸内の不動明王祠 |
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殿様道(1640年頃) 将軍が代わると、新将軍就任の御祝に『朝鮮通信使』が日本へ渡ってきた。そのお世話は通過する藩が全般的に行うこととなっていた。福岡藩は『相ノ島』に接待殿を作り、そこで全般の世話をした。その為藩の重臣、学者、時には殿様もお出ましになった。 |
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現在の殿様道(和白丘3丁目付近) 現在の殿様道と「道天越」へのわかれ道(右) |
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下和白の庚申堂(1711年) 下和白安河内和三氏(和白丘三丁目)の邸の傍にあり、昔は殿様道を守ってこの街道筋に立っておられたのであろうが、今日では裏道になってしまって庚申堂も忘れられそうになっている。1714年の建立。 当時は地元の主婦逹の『庚申待ち』という信仰と親交の中心となっていたようである。 |
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下和白 庚申堂 |
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下和白の六地蔵(1798年) 和白丘二丁目、県道26号線(旧国道3号線)の傍にある。附近の字名を『地蔵後』と称するので、干拓堤防の守護神だったかもしれない。 |
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干拓堤防の守護神・六地蔵 |
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山ケ下古墳群 昭和54年、和白丘中学校建設に伴う事前調査で発掘された。550年~600年頃の横穴式後期古墳。 1号墳 出土品…須恵器、土師器、耳輪環 2号墳 1号墳と同じ。 3号墳 出土品…鉄直刀 相ノ浦越し、又は「道天越し(ドウテン越しが訛ってドウデ越しになったといわれている)」とも呼ばれた。玄海灘ぞいの粕屋、宗像の人々が博多へ出る大事な道であった。玄海灘ぞいに松原を通り新宮町下府へ出て、下府から人丸神社道を通って『殿様道』へ。美和台公民館長佐藤悦路氏邸附近から右折、急坂を上り飛山を越えて相ノ浦へ至る。 相ノ浦から舟で博多へ向うというのが当時最も便利な道であったようだ。 |
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相ノ浦香椎神社(1707年) 相ノ浦北ノ上に鎮座。 古い記録として「筑前続風土記附録」の中で『拝殿九尺四方。祭祀陰暦九月九日、十一月六日の両度。奉仕武内高間、桂ケ崎(勝ケ崎)北方村中にあり、宝永年中に勧請せり。相ノ浦八戸産神なり』とある。 その後は毎年11月6日大祭には官幣大社香椎宮より神官出張のうえ祭典執行せらる云々と記録されている。 |
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相ノ浦香椎神社 |
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相ノ浦観音堂 相ノ浦へ応誉和尚が布教に船で通われ、相ノ浦に小さな寺を建て住まわれるようになったと伝えられている。 相ノ浦の太田 武氏邸左側の道を上がっていくと、一寸した石段があり、その右側が円相寺二代目安貞大徳の墓*1、石段を上がった正面の広場に相ノ浦観音堂(裏糟屋郡千人参り77番札所)、その傍らに不動尊石像がある。 *1二代目安貞大徳の墓 御骨は長楽山円相寺に移されている。ここは墓石のみ。 |
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左から 観音堂 波切不動尊 大徳様墓 円相寺跡碑 |
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*大徳様墓 観音堂再建の折、階段の上・右側にあった墓を不動尊隣に移動する *旧観音堂は現在地向かって左側数歩の所にあった(太田武さん2007年) |
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神功皇后 船繋ぎ松 相ノ浦の地名 相の浦の由来は、神功皇后征韓の際、船が香椎の浦を離れると急に南風(はえ)が吹き出し、海が時化ることが予想されたため、博多湾を出ることを見合わせ、勝ケ崎を廻ってこの浦に船を繋いだことから、後に浦人達が「南風(はえ)」ノ浦と呼んでいた。これが訛って『相ノ浦』と呼ぶようになったという。 *相の浦は和白地区随一の良港で、博多~裏粕屋郡を結ぶ船の泊り場となっていた。このような環境から神功皇后磯遊びの船繋ぎ伝説も生まれたと考えられる。 記念碑は、下和白相の浦(和白五丁目地内)の入口に、神功皇后ゆかりと伝えられる八角のコンクリート壁の大きな井戸がある。傍に記念碑があり、碑の表には『神功皇后御繋船遺跡』と刻まれている。 |
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神功皇后御繋船記念碑 |
神功皇后ゆかりの八角壁の井戸 |
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◆八角の井戸について 船繋ぎ松のそばに「井戸」が設けてあり、三代目の松の枯れ死以降は絶えた。「井戸」は井戸でなく、埋め立てが行われた時、海岸の砂浜(波打ち際)の跡を保存する目的で作られ、当初は素掘りであったが、転落事故を防ぐ目的で八角形の壁を作り上にふたをかけた。 |
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若宮様 昔まだ和白平野が海だった頃、飛松(旧塩浜集落裏山)の麓をめぐって、幅1mくらいの路が走っていた。 それが当時唯一の下和白←→塩浜←→相ノ浦←→新宮への道だった。 塩浜を出ての相ノ浦に向ってすぐ、少し坂道を登った所に頓松(飛松)といって5~6本の素晴らしい松の大木があって、遠くから眺めてもうっそうたる森をなしていた。 その老松の下に『若宮様』の小さな御堂がある。若宮様は牛の守り神である。大正頃まで牛は農家の宝物、農耕の大切な中心的力であった。この大事な牛を護ってくださる神様が若宮様だった。 |
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牛の守り神 若宮様 |
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探訪コース
西鉄三苫駅出発
①森の屋敷稲荷社 ②綿津見神社 ③文殊菩薩
④青面金剛碑 ⑤三苫大師堂 ⑥庚申天 ⑦三苫観音
⑧正覚坊石碑 ⑨託乗寺
西鉄三苫駅解散
探訪は、約2時間30分程度で、距離は約3.3㌔程です。
(メモ)
①駐車場 なし
②トイレ 三苫駅・三苫浜中央公園・三苫公民館(了解を得る)
③ガイドコースマップ・綿津見神社境内配置図
三苫ガイド概要
Ø三苫(みとま)
神功皇后、新羅西征時の航海途中、対馬付近で大暴風雨にあった。その時従軍していた中臣鳥賊津臣(なかとみいかつおみ・・・・三苫氏の祖)が三枚の苫(スゲや茅を編んだもの)を海に投じると、海は、たちまち鎮まったという。三苫は、その三枚の苫が流れ着いた場所と言われている。
又、その苫を神体として竜王社を建てたという。
昭和47年代の西鉄三苫駅(写真右側は開発中の美和台)
Ø三苫水道・三苫島・・・下記写真参照
昔博多湾より三苫を通って新宮町の湊に通ずる地域は三苫水道と呼ばれ、この水道で隔てられた三苫・奈多一体を三苫島と名付けている。
その昔、和白地区はこの三苫水道によって二分されていたといわれ、この三苫水道の東側(美和台側)を東浜、西側(三苫側)を西浜、そして相浦から塩浜を巡って下和白に至る海岸一帯を「桂浜」と呼んでいた。
赤の実線内が現在の和白です。
詳細地図
コース概要
①森の屋敷稲荷社(三苫字高田)
森の屋敷稲荷社
綿津見神社境内の飛び地「森の屋敷」
8世紀頃、香椎宮神官として京都から下った和気重春は与えられた三苫郷に居を構え、姓を「三苫」と改め代々三苫郷を領有し、香椎宮4党の一つとなりました。ここを「森の屋敷」と呼んでいるが、「三苫家」代々の屋敷跡と想像されます。
ここに鎮座されている稲荷社は、大正のころまで近郷の漁師たちが新鮮な魚を持って豊漁のお祈りに、また、物をなくした時にお祈りすると、失せ物が出てくるというので、多くの人が参拝していました。
*香椎宮4党とは
竹内氏・三苫氏・御田氏・清原氏(中牟田氏)
②綿津見神社・・・仏像写真参照
綿津見神社
「鎮座由来、香椎宮旧記に神功皇后征韓御渡航の際対馬を発船された時俄に大雷雨大風涛起り御船危殆に瀕す。此の時御船の苫(とま)三枚を海中に投入し何れの時何れの処にあれ此の苫の流れ寄らん地に社を建て拝祭せんと海神に祈られし処立処に風涛治り征韓の大業を易く終え給い 凱旋後苫の漂着せし地に三枚の苫を神体とし社を建て海神を拝祭された。此の神社なり。又此の所縁により地名を三苫という。古来香椎宮神輿渡御報賽の儀あり中古より神使の神祭となり現在に至る。 香椎宮宮司 木下 祝夫 識」
*当初は『八大龍王社』と称し、石の額と石灯篭に面影を残しています。明治初年神仏分離の際『綿津見神社』と改められ、航海安全、漁業と農業の神社として信仰されています。
八大龍王社の鳥居の額を納めた祠
仏像群福岡市指定有形文化財・彫刻
◆虚空蔵堂 (左の祠)
吉祥天立蔵きっしょうてんぞう ・不動明王 ・虚空蔵菩薩立蔵
・伝薬師如来像
◆大日堂 (右の祠)
大日如来像
虚空蔵堂の仏像
虚空蔵堂の虚空蔵菩薩木造
大日堂の大日如来像
このうち如来形立像(伝大日如来像)が拝殿脇正面右の大日堂に、残りの4躯は左の虚空蔵堂に安置されている。如来形立像と菩薩立像は11 世紀あるいは14 世紀に海中から引き上げられたと伝えられています。製作時期は、伝薬師如来坐像が南北朝時代(1333~1392)、残り4躯は平安時代(794~1192)後期と考えられます。 虚空蔵菩薩は延暦24 年(805)伝教大師最澄の作とされ、かなり老朽化しています。
この仏像群は玄界灘沿岸の古代・中世の宗教文化を物語る重要なもので、また廃仏毀釈の破壊を免れて残った貴重な文化財です。
こくんぞさん祭り:
虚空蔵堂内中央の虚空蔵菩薩は、知恵の神。三苫では財宝の神として「縁日(1 月13 日)に菩薩から小銭を借りると一年間は小遣いに不自由しない」という数百年来の信仰があります。小銭を借りた参拝客は1年後、感謝の意で借りた金額の倍額を返しに訪れます。
若宮様(綿津見神社境内)
コンクリートの小祠に鎮座。祭神は仁徳天皇で農耕の神。
三宝大荒神碑 (綿津見神社境内)
若宮様の隣に祀られる。竈 の神。
三宝大荒神碑
黒津神社(綿津見神社境内)
磨き石の小祠に鎮座。祭神は「武内宿彌」。久山町山田にある「黒男神社」 と同一神で希有の神社。
須賀神社(綿津見神社境内)
磨き石の小祠に鎮座。日本地名大辞典に「ヤマノカミにある舞神社(祇園)では、奈多の三郎天神(志式神社)に神技を奉納する神官が、同社で舞楽を奏した後、三郎天神へ行った」と記してある。この舞神社が須賀神社のこと。
黒津神社と須賀神社
虚空蔵菩薩(綿津見神社境内)
810年頃伝教大師最澄の作と伝えられる。
③文殊菩薩(参道崖上)
綿津見神社への参道左側の海岸断崖上にあり。通称「お文殊さま」。
文殊菩薩
④青面金剛石碑(永吉政昭氏邸三叉路)
三苫旧貫線道路中央付近三叉路にあり、享保2年(1717)丁酉8月13日の刻書。
青面金剛石碑と うんばざらやしゃうん の碑
⑤三苫大師堂青面金剛石像(永吉政昭氏邸裏)
旧般若寺 跡と伝えられる。大師堂は1720年頃の建立と伝えられるが、当時は三苫の第一号貫線道路の三苫への入口にあたり、村の北入口を守護される石仏であった。
昔はここに大樹があり、昼尚暗く、夜独りで歩くと「馬の脚が下がってくる」といわれた。
三苫大師堂
⑥庚申天(堺 純太郎邸三叉路)
三苫中央部三叉路にあり、寛政9年(1797年)正月の刻書。
庚申天
⑦三苫観音(購買店前四叉路)
三苫購買店前にあり、観音尊像3体が祀られている。
本尊 観世音菩薩(右)不動明王(左)準胝観音(ジュンテイ(デイ)かんのん)
三苫観音
⑧正覚坊石碑(堺 憲一氏邸角)
堺 憲一氏邸東北隅三叉路に面し、寛文9年(1669年)11月の刻書がある。宝満山の修行僧「正覚坊」の石碑と伝えられる。
正覚坊石碑
⑨託乗寺
青柳の天台宗良泉寺の住職「唯念」は、教如上人の許で数年間修行に励み「本尊阿弥陀如来」2体を戴いて帰国し、宗派を真宗に、寺号も「託乗寺」と改め開祖「彬珈」に譲った。正保3 年(1646)三苫に移り、名だけの般若寺を再興、轡納山託乗寺開山。
轡 水:託乗寺の中庭にある。
神功皇后征韓の帰途、飲水を求めると、皇后の馬が轡(くつわ)を咬みきり駆けだして、前足で盛んにけった所から清水が湧き出しました。依って地名を轡崎、井戸を轡水(くつわみず)、轡を埋めた裏山を轡納山(ひのうさん)と呼ぶようになりました。
託乗寺
託乗寺 鐘ヶ井戸
上和白お汐井路ガイドコース説明 コース 駅前和白公園(スタート)~①和白駅前大師堂~②和白高等小学校碑~(国道梅ヶ崎信号)~(JR踏切)~③松原口堤~④和白ゴルフ場入り口~おしおい道~(唐の尾 俯瞰)~⑤小金丸一族集落地~⑤立花城西の出城跡~⑥地蔵堂~⑦弥勒菩薩~⑧明覚寺~⑨白川恵比寿神社~⑩貴船宮跡【現在跡地は住宅地となり何も残ってないが、大神神社境内に有る貴船社・庚申尊天が有った場所】~⑪薬師ヶ浦~⑪境内の薬師堂・お地蔵様~⑪一字一石塔~⑫大神神社(みわ杉~御神殿~貴船社~宮前1号墳~高藤底樋)~⑬宮前3号墳~⑭高見堤~ 和白東公民館(ゴール) 3.5㌔弱 上和白と、おしおい路の概要 上和白地区 旧和白地区には、和白川の中流に当たる上和白の水田地帯に「浜田、古賀堀、汐入」等の小字があり、塩田跡と思われる塩を焼いた、焼き石が多量に出土する地域もある。これらから和白川両側の低地帯は、昔は博多湾の入海であったことは確かであろう。 この地域には畦道は有っても、主たる道路は、南側、ゴルフ場の丘ふところを行く「お汐井路」言われる道と、今ひとつ「中和白の山道」の二つがあった。 おしおい道 大神神社より水田地帯を横切り~薬師堂~旧貴船社の台地へ上がり~部落の南側丘陵の麓を曲折して、「小金丸一族の墓地」の下を通り~松原口池の北側~旧国道3号線を横切り~梅ヶ崎山麓、「旧小林、船越両家一統の墓地」の南側を通り~博多湾へ出る。 昔、上和白の人々が神様にあげるお汐井をとりに、通った道だったことから、そう呼ばれるのであろう。 探 訪 ①和白駅前大師堂 和白駅裏通りに小さな大師堂がある。正面の板額に粕屋北部新四国千人詣り第五十四番霊場とあり、三体の石仏が祀られ、右から「弘法大師像」、「十一面観音像」、「不動明王像」が並んで安置。 これらの石仏は姪浜で造られ、三仏を「カネンテ」(かっての博多湾岸、船着き場)まで船で運ばれ、カネンテより現在地まで駅前の住民総出で、そろいのハッピ、鉢巻き姿で、赤白の反物で縄った綱で車力を引いて来たという。 当時は一帯は松原で、墓地もあり、冬の夜はキツネがしきりに鳴くという駅前の情景であった。 「カネンテ」について 配布資料【「ふる里のむかし」わじろ】の和白干潟と塩浜干拓コース地図を参照ください。 ②和白高等小学校記念碑 記念碑が設立されている位置は、当時の高等小学校の正門に当たり、当時は高さ3㍍、径40㌢の花崗岩の石柱(2本)で造られた標札であった。 和白高等小学校は青柳高等小学校の分校として1900年(明治33年)に発足した。 その当時の校区は、和白、立花、原上三代、下の府、湊、新宮で上和白の大名(オオナ)地内に設立された。その後梅ヶ崎の山麓に移築され、明治45年廃校となった。 当時の糟屋郡の高等小学校 和白、青柳、久原、大川、宇美、箱崎の六校 *このように当時和白には、高い文化があり、現在でも和白小学校は、福岡市内でも優秀な小学校として人気が高い。 ③松原口堤 延宝年中(1673~1681年)水掛り1町余水面積450歩。 旧和白で最も古い池は、現美和台にある四十浦池で、今から約3500年前(1600年頃)の古池。2番、3番は大字上和白(現高見台)に現存する高見池で約325年前(1670年頃)、大蔵池は高見池より2年遅れの(1672年)に出来た。 *昔は塩田が盛んであったが、農耕へ転換するが、同地区には大きな川も無く、農耕用の池として造った物であろう。 ④和白ゴルフ場入り口・・・場内の古墳 造成前の地番は、大字高藤といい、高藤山連山の左端山頂に一基現存、ゴルフ場8番コースのティーグラウンド横に古墳の標示がある。 現在3基の古墳が発見されており、ゴルフ場では古墳に関わる武将の御霊を祀る「勝緑塔」を昭和58年4月1日に建立し、毎年春のお彼岸に供養祭が行われている。 写真参照 和白ゴルフ場と古墳 おしおい道に入る 「唐ノ尾(トオノオ)遠望」 鹿児島本線、香椎から和白を経て筑前新宮駅へ大きくカーブする丘の突先を『唐ノ尾(トオノオ)』と呼ぶ。 その昔、伝教大師と共に立花山へ登った二~三の人が、大師が修行された唐の国の方角を尋ねた折、大師が指差された原野から多くの鶴が飛び立ち、中和白の丘の端に降りたことから、この原野を『唐原』、鶴の降りた附近を『唐ノ尾』と呼ぶようになったと伝えられている。 ⑤小金丸屋敷群と立花城西出城跡 イ、小金丸屋敷群 上和白の旧家は、小金丸姓と安河内姓が多いが、この界隈は特に小金丸家の旧家を多く見かけることができる。 ロ、立花城西出城跡(和白東一丁目・二丁目公民館) 小金丸古文書によると、1581(天正9年)立花(りゅうげ)というところに古い大塚が有り、その側に五重塔があるという。 同場所は立花城の出城として造られ、その下には井戸があった。その井戸を立花の井土という。 1926(大正15年)頃までは、この立花城の出城跡と思われる高台に、古墓20数基が並びその西下に大正6年建立の「字高藤溜池増築記念碑」も立っていましたが、昭和初年の農地整理の際、その高台を切り崩し農地用土に使われ、記念碑は大神神社へ、また五重の塔は明覚寺へ奉納、移転し、その跡地は現在の「上和白公民館」が建築された。 A 和白東1.2公民館 貴船宮跡(上記「上和白字立花坂周辺図」F)の地位の特定について 現在の地図と参考文献「上和白の歴史」52㌻の「東区上和白字立花(リュウゲ)坂周辺」を対比し、コンターや人家、道などを参照し位置を割り出してみた。(HP管理人見解) 上和白地区「高見ヶ丘住宅」の造成前の地図があると、かなり確かな特定位置を探ることが出来るのだが。 ⑥地蔵堂 小金丸清氏邸内入り口の祠に祀られている。 砂岩製の小型の石像物で三体。 右から「たちえ地蔵菩薩」、「延命地蔵菩薩」、「ひぎり地蔵菩薩」 毎年、7月24日近所の人が集まって簡単なお祭りをしている。 ⑦弥勒菩薩堂 岩崎泰蔵氏の通称オクンタ(奥の谷)への通路、高さ20㍍の山の上に祀ってある。 筑前国続風土記拾遺に「弥勒堂、村西にありミロク田という田地あり」とある。 大正年間には御祠(オコクラ)もなく弥勒様も明覚寺に預けていた。昭和へ入った頃、あまりにも家人が次々原因不明の病気になるので御祈祷を頼んだところ「元のところへ帰りたい」とのお告げ。それで昭和26年、弥勒様を元の場所より4㍍ほど南に移築し、7月23日を例祭としてお祈りしている。 弥勒様は虫食いでかなり風化が進みボロボロである。 *弥勒菩薩、地蔵菩薩とも「お汐井路」の西の入口を守護される石仏様である。 ⑧龍華山 明覚寺(浄土真宗本願寺派) 天正16年(1588)立花城主、立花宗茂公が柳川へ移封されると、家臣の小金丸主税之丞虎政は、請うて下野(農人)した。その子久左衛門(宗伯)は、当時和白の小字立花(りゅうげ)にあった一草堂を再興し、自ら開基となる。 正保4年(1647)寺号、木仏を許され立花に因んで龍華山明覚寺と称し、本堂、納骨堂は平成17年(2007)に建て替えられた。 ○小型の五輪の塔 西暦1500年頃の石像と推定されるが不明。 立花城西の出城(立花)にあった五輪の塔は、昭和初年の農地整理の際、明覚寺へ奉納された。現在石像は同所には無く、市内某所に納めてあるという。 ⑨白川恵比寿神社 御祭神は恵比寿さま、お稲荷さま 御手洗家は、黒田藩の財政を支えてきた博多の豪商。禁制の貿易が発覚して、一族全部が処刑された伊藤小左衞門(1667)のゆかりの家。 昭和14年頃、小左衞門の霊を静かにお祀りしたいと当主の母親が言い、この地に移ってきて白川稲荷様をお祀りしているとのこと。 ⑩貴船社・庚申尊天跡 場所の特定は周辺が造成されて不明ですが、参考資料によりますと、お汐井路と明覚寺に通ずる三股路に、貴船社と庚申尊天は共に鎮座されていましたが、大正14年、県の指導により貴船社と共に大神神社へ移し祀られている。 *資料を読み、現在の地図と場所等を比較してみますと、白川稲荷駐車場の道路を隔た前であったように思われる。 続風土記付録に「薬師谷に温泉跡という古池が、側に薬師堂が、カタハラに貴船社、中和白に観音堂がある・・・」 ⑪湯谷山薬師堂境内 イ、薬師ヶ浦(湯ノ浦) 雪が降って周囲が積もっても、この池は凍らなかったので、温泉の跡という言い伝えがある。 ロ、薬師堂 本尊薬師如来像、1700年頃からと推察される。 左下の手洗い鉢に「安永六酉月吉日(1777)当村若者中」と刻書あり。 ハ、地蔵堂 薬師堂の左側 当初、船越博氏の屋敷裏三又路の竹林の中にあったが、大正14年頃「貴船社」は大神神社境内へ、お地蔵様は現在の地に移された。7月28日お籠もりをして祭っている。 ニ、一字一石の塔 石塔に「奉納大乗一字一石、安永三丑年(1774)八月吉祥日」とある。 裏面には「法名、還山自休居士謹拝写、俗名、当村住、安河内孫右衛門」と刻書がある。 高さ120㌢程の丸形の自然石である。 庄屋の孫右衛門さんが、大乗経の経文一字一字を、村民の安全、無病を祈りながら丹念に墨書きされている。 ⑫大神(おおみわ)神社 ○御祭神 大物主神(大国主命 大黒様) 出雲神社と並ぶ大神神社(おおみわ神社、大和の国一宮)の分社である。貴船神社、荒神様は末社。 ○由 緒 神功皇后出兵の節、大和の将兵がこの地に駐屯した時に、この立花山麓が故郷の三輪山に似ているので、故郷の大神神社をここに分霊し祀ったものと思われる。 「おおみわ」とよぶのは大和の大神神社が三輪山をご神体としていることによる。 ○社 殿 昭和39年(1964)再建 ○石像物 庚申塔、大黒像、神馬、寝牛、記念碑多数 ○みわ杉 昭和49年奈良の大神神社の杉3本が移植され、現在1本が残る。 ○宮前一号墳 和白の丘陵には6世紀末から7世紀の円墳がある。 「下和白塚原古墳」「飛山古墳群」「宮前古墳群」などである。 この地域では古墳時代末期には大きな農漁業集団が活躍していたと思われる。 宮前古墳群は昭和45年からの高見台造成時に見つかった。6世紀末頃の古墳とされる。 宮前一号墳、三号墳はどちらも横穴式石室の円墳である。 出土品 1号墳・・・馬具、直刀、黒曜石の矢じり、金環、ガラス玉等 3号墳・・・須恵器、ガラス玉 これらの古墳の特徴として、刀などが出土されていることから、軍事的集団の墓であろうといわれる。 ○高藤底樋 2002年(平成14年10月)、和白ゴルフ場内の高藤下池改修工事で取り替えられた一部。 この木製の底樋は樹齢約70年の松の原木を縦割りにして、通水断面を箱状にくり抜き、替折れ釘を使って元の丸太に組み合わせた構造になっている。 ⑬宮前三号墳 前段で説明済み ⑭高見堤 325年前の古い池。寛文10年(1670)水掛12町歩余 |
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上和白お汐井路を往く説明資料から |
岩見重太郎誕生之碑がある お観音様広場の桜 |
名島神社境内の桜 |
名島城跡公園の臥竜桜 |
宗栄寺境内の桜 |
名島発電所跡の桜 |