中世の香椎と香椎宮
はじめに
平安末から南北朝時代までの香椎及び香椎宮に関して、香椎B遺跡から出土した墨書陶磁器の内容を分析し、さらに文献史料から香椎と日宋貿易の関係を検討してみる。
◆出土墨書陶磁器の分析
香椎B遺跡は、平成7年(1995)4月から、福岡市東区大字寺熊1519番地一帯の宅地予定地内の区域の発掘調査を行い、平成9年(1997)11月調査終了。調査の結果、平安時代~戦国時代の香椎地区の歴史的変遷が明らかになった。そのなかで、墨書陶磁器の出土を紹介分析する。
このB遺跡からは、45点の墨書中国陶磁器が出土している。いずれもB遺跡の寺熊〈テラクマ〉地区から出土したものである。また、いずれも中国宋代の陶磁器の外底部に墨書があり、年代は12世紀のものが殆んどであるという。中国陶磁器の底部に墨書した陶磁器は、博多遺跡群からは、大量に出土していが博多以外の地域では殆ど出土例がなく、博多で行われた日宋貿易に深く関わる遺物と考えられている。政治・外交の中心であった大宰府でも、宋代の陶磁器が大量に出土しているが、墨書陶磁器は数点しか確認されておらず、博多と大宰府の性格の相違が考えられる。香椎B遺跡寺熊地区において出土した墨書陶磁器45点という数量は、博多に次ぐ量でこれは博多遺跡群の出土量にはるかに及ばないが、大宰府より多いという点で注目され、12世紀代前後における香椎と日宋貿易の関係が想定される。
この45点の墨書陶磁器は下記のような分析となる。
第一グループは中国人の名前(姓)を記したもの。「陳」、「王」、「李」などがある。こうした中国人の姓名を記した墨書陶磁器は、博多遺跡群で数多く出土している。墨書陶磁器の墨書の意味は、①個人の所有物を表す。②組織体の備品を表す。③商品の所有者を表す。の大きく三通りの解釈がある。①、②の見解では、陳、王、李といった宋商人が香椎の寺熊に居住していたことになるが、③では出土陶磁器が陳、王、李といった宋商人の積荷であるという解釈になる。いずれか、これは判断できない。
第二グループは上・中・下の文字を記した陶磁器。「上」が7点、「中」が1点、「下」が3点ある。他に「上」の残画らしきものが3点ある。「上」が圧倒的に多いことは博多と香椎で共通する。博多遺跡群の場合、中国人名を記したものが圧倒的に多いが、香椎B遺跡はこの第二グループの多さが特徴である。
第三グループはその他の漢字。「天」、「安」、「山」、「一」の出土があるが、「一」以外は博多遺跡群で出土例がなく、これも香椎B遺跡の出土の特徴である。
第四グループは花押らしきもので、文字として判読が難しいもの。花押タイプ以外にも、墨書の汚れや破損等で判読出来ないもの。
香椎B遺跡出土墨書陶磁器は以上の通りで、香椎と日宋貿易との深い関わりがあるといえる。
◆日宋貿易と香椎
●香椎と香椎宮の流れ
香椎自体と日宋貿易の関係は史料的にはよくわからないが、香椎宮と日宋貿易の関係は、断片的に判明する。香椎宮は本来香椎廟として、朝廷の崇敬を受けていたが、保延6年(1140)閏5月5日、大山寺、香椎宮、筥崎宮の神人らが大宰府と対立し、大宰府已下屋舎十家を焼き払ったことにより、香椎・筥崎両社は大宰府に付けられた。筥崎宮はその後、石清水八幡宮領となるが、香椎宮は、大宰大弐として仁安元年(1166)大宰府に下向した平頼盛によって、蓮華王院(三十三間堂)に寄進された。この時頼盛は香椎宮の領家であった。その後、平家の衰退によって、寿永3年(1184)4月、頼盛の母池禅尼がかって源頼朝を助けた功により、頼盛は赦され、筑前国香椎庄を含む家領は返付された。鎌倉初期に香椎宮は後白河法皇より石清水八幡宮に寄進され、南北朝後期まで石清水八幡宮の荘園制的支配が続いた。このような流れの中で、日宋貿易との関係で注目されるには、大宰大弐平頼盛の香椎宮領家職掌握である。平氏は日宋貿易への志向性が強く、頼盛の兄清盛は、先例を破って宋船を兵庫大輪田泊に引き入れたほどである。また大宰府は対外関係を司る役所であり、大宰大弐はその実質的な最高責任者であった、ゆえに日宋貿易と香椎宮の接点の一つは、平頼盛にあったと思われる。
●香椎宮と栄西
また、香椎宮と日宋貿易の関係を考える際、入宋僧栄西との関係も重要である。栄西の入宋は、仁安3年(1168)(同年帰国)と文治3年(1187)(1191年帰国)の両度にわたる。『元亨釈書』によれば平頼盛が栄西の旦那であって、第二次入宋時は頼盛が援助したといわれる。第一次入宋の直前に栄西は、九州諸社で航海安全を祈願しているが、その中に香椎宮も入っていた。また、第二次入宋中の建久元年(1190)には、栄西は宗から菩提樹を日本に送り、これを香椎宮境内に植えたという。帰国後の建久3年(1192)、香椎社の側に建久報恩寺を建立し、ここで初めて菩薩大戒の布薩を行った。
このように、平頼盛との関係の深さが、栄西と香椎宮をより緊密に結びつけていたようである。栄西の周辺には、李徳昭ら博多在住の宋商人がいたが、香椎宮―平頼盛―博多宋商―栄西という連関は、日宋貿易と密接に結びついていたものと考えられる。建久5年(1194)2月1日から3月24日にかけて、僧良祐は、「香椎宮中于報恩院寺」「香椎報恩寺」「香椎別処報恩院寺」において一筆一切経の一部を書写している。この香椎報恩院寺とは、栄西建立報恩寺と考えられるが、これらの経典の「本経主」は「綱首張成」であった。張成は博多綱首(ごうしゅ)の一人と考えられているが、綱首と香椎宮及び建久報恩寺との関係が知られる。
◆香椎と日宋貿易に関する文献史料
香椎及び香椎宮と日宋貿易に関しては、森克己氏の次ぎのような指摘がある。「この香椎宮の神領にも貿易船が著岸したことは、正嘉元年東巌安禅師が香椎宮で入宋のために便船を待っていること(東巌安禅師行実)、また弘長2年には、南都白毫寺注文の一切経を載せて宋の明州を発した商船も、香椎の浦に著岸している実例(南都白毫寺一切経縁起)等によって知ることが出来る。」とこの指摘によれば、13世紀半ばの香椎は、博多ほどではないが、日宋貿易の一拠点であったということができる。平安末期の香椎には、「客船数隻」を繋ぐ港があり、貿易港としての条件をある程度有していた。
また、万寿2年(1025)から長元5年(1032)にかけて香椎宮司武行は、京都の藤原実資に対して、唐綾・紫金膏・可梨勒・檳榔子・絹などの唐物を贈っている。これは香椎宮司武行の日宋貿易品入手の事実が指摘できる。この時代は博多で本格的な貿易が行われる直前の時期であり、鴻矑館貿易で流入した唐物を入手した可能性が高いと思われる。
◆博多綱首(ごうしゅ・こうしゅ)
博多に居住した中国の宋人の資本家。綱司ともいう。「綱」は、貨物を輸送する組織、貿易船を意味する。綱首は貿易船のオーナー。宋船は平安末期ごろから、政府直轄の荒津や袖の港だけでなく、有力な公家や寺社が領有していた荘園の今津や箱崎、香椎、宗像に自由に着岸して取り引きするようになり、綱首たちの活動もいっそう広範になっていた。また日本人と結婚したり、日本人名を名乗るものもいたという。仁治2年(1241)、承天寺建立をなした謝国明は宗人の有力綱首たちの代表格で、当時の日宋貿易のリーダーで統括者だった。
香椎報恩院の一筆一切経の書写、経典の「本経主」は「綱首張成」であったと記録にあるが、「色定法師一筆一切経」は宗像神社の僧色定法師が、文治3年(1187)から41年間かけて「宋版一切経」の全5,084巻を書写した。(現在は宗像大社に4,336巻が残っている。)写経の場は宗像社にとどまらず、筥崎・香椎・雷山や遠くは四国讃岐から京都にまで及んでいる。また、写経の協力者として宗像社内外の僧侶など多くの人々のなかに、博多に居留した中国宋の商人の名が見えることが特筆されている。網首張成と網首李栄であり大陸・朝鮮半島との貿易をおこなう豪商であった。
おわりに
以上の所見、文献史料から香椎B遺跡の寺熊地区には、日宋貿易を担う宋商が居住していた可能性があると考えられる。しかもそれは、陶磁器の年代から、建久報恩寺が建立される以前の12世紀にさかのぼる、博多に宋人居留地が形成される時期とほぼ同時期であるといえる。博多の唐房=大唐街のみに宋人が集住したわけではなく、近隣地域にも宋人は居住したようである。12世紀から13世紀半ばにかけて、香椎にも、香椎宮や大宰府有力者・領家等の承認によってなにがしかの宋人が居住し、さらには、ある場合には香椎宮の神人化して、貿易活動に従事していた可能性もあると考えられる。
埋蔵文化財発掘調査報告 『香椎B遺跡』
2000福岡市教育委員会
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