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「ふるさと香椎」発刊にあたり
香椎の故事来歴を知る人や、古い住人がだんだん少なくなり、地元の伝説伝承の語り部がいなくなって来ている。香椎へ新しく移り住んだ人々や近辺の関係者からも資料の取りまとめを望まれていた。そこで、香椎校区青少年育成連合会が毎年行っている寺社巡りや講演の資料をまとめることとした。
一昨年6月、公民館で「ふるさと香椎」第一部を発行いたしましたところ第二部を待ち望む声が多かった。ここに第一部を加除・訂正し、新たに地名の由来、香椎宮、発展の過程、粕屋北部八十八カ所、付図、和歌一覧等を追加して総集編とも言うべき「ふるさと香椎」を作成・発刊することとなった。
年代や内容の照合用資料として「香椎町史」、香椎小学校創立百周年記念誌「かしい」その他を使用し、できるだけ矛盾や重複を避けた。
本パンフレットが郷土史入門として、又、歴史散策やハイキングの際の一助になれば、幸甚です。
館長 森 泰播
(平成3年7月発行「ふるさと香椎」より転載) |
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◆地名の由来 |
香椎を中心に東区、糟屋郡、西区及び佐賀県の地名など言われを記す。
1. 神功皇后関係
(仲哀天皇を含む)
息長帯日売(おきながたらしひめ)の命(みこと)と呼ばれた。朝鮮系の 非常に大柄な女性で、仲哀(ちゅうあい)天皇死後、69年間摂政に就き (一説に天皇即位)、100歳で4月17日に亡くなったという。
皇后に関する伝承は、香椎宮をその中心に、姪浜、能古島、糸島、唐 津、新宮、津屋崎、八幡と北部九州の沿岸部はもとより内陸部まで、星の数ほどあり、様々な地名、由緒、説話に圧倒的な影を落としている。
だが、新羅(しらき゛)遠征(三韓征伐)は史実にはなく、神功(じんぐう)皇后も架空の、伝説上の人物である、という史学上の見方もある。
皇后の表記には、息長帯比売命・息長帯日売命(古事記)、気長足姫命(日本書紀)、息長帯姫命・息長足日女命(伊予国風土記)、大帯火日 命(播磨国風土記)、息長足比売天皇(摂津国風土記)があり、中世以降は神功皇后、大帯姫命、息長帯姫命と記されている。又、皇后を祀( まつる)神社は、北海道から沖縄まで全国に約910社ある。
@ 香椎・・・棺掛椎参照
9年(西暦200年)2月6日、52歳で突然亡くなった仲哀天皇の寝棺を立てかけた椎の木から異香(くしきかおり)が四方にに薫ったので以降、この木を香椎と名づけ、地名をこの文字に統一したという。
「かしひ」は、早くから歴史に登場した土地で、古史によれば、様々な字があてられている。表記としては、加紫比・加須比・加之布(万葉集)、訶志比(古事記)、橿日(日本書紀)、香椎・樫日(続日本書紀、宗史)、糟氷(姓氏録)、拍P(筑前国風土記)、借飯(諸神根源抄)、樫日(日本後記)などがある。
A 和白(わじろ、又は、わじら)
皇后が軍議を行った所で、和白には、「会議」の意味がある。そこで和白の地名になったという。
B 三苫(みとま)
皇后、新羅西征時の航海途中、対馬付近で大暴風雨にあった。その時従軍していた中臣鳥賊津臣(なかとみいかつおみ・・・・三苫氏の祖)が三枚の苫(スゲや茅を編んだもの)を海に投じると、海は、たちまち鎮まったという。三苫は、その三枚の苫が流れ着いた場所と言われている。
又、その苫を神体として竜王社を建てたという。
C 片男佐(かたおさ、又は、かとうさ)・・・御島参照
香椎潟の一部。皇后が御島(みしま)でみそぎをし、神託により髪を「みずら」に結って海岸に上陸したところ、皆が「男のようになられましたね」と言っので、この名が生まれたという。(頭は男の髪型、衣裳は女物なので、この海岸で半分だけ男になったの意)
D 鎧坂(よろいざか)
旧国道、香椎小学校東横あたりからの上り坂を言う。皇后が片男佐よりの帰途、始めて鎧を着けたという坂で、昔、この坂で落馬すると命を落とすといわれ、馬上の人は必ず下馬したという。碑が立っていたが、現在は不明である。これより香椎寄りの部落を浜男と呼ぶ。
E 浜男(はまお、又は、はもう・・・濱男)
皇后、山越えして鎧坂に出、全面に海岸が再び開けた。そこで一休みして鎧を着けたところ、立派な男(半分ではなく完全)に見えたので浜男となったという。(浜辺で男になったの意)
F 皆打(かいだ、又は、みなうち)山、皆打浜
昔、松崎から浜男にかけての山と海岸を言った。皇后凱旋のおり、香椎宮の留守の人々が杉山(現在、頓宮のある丘陵)で出迎え、戦の勝敗を尋ねたところ、凱旋の人々が「皆打ちたり」と答えたので、その山を皆打山、海岸を皆打浜(香椎潟の南側・・・・北側は片男佐の浜)と言う。
G 神の木・・・東区水谷
皇后凱旋の時、この山より榊(さかき)等を切り出し、手にかざして出迎えたので、この水谷の上の台地が神の木になったという。
H 前松原、舞松原・・・東区
頓宮下一帯は、明治の末まで松原の海岸であった。香椎宮の前の松原ということから前松原となった。水谷の南の方、松崎にかけての地を言う。
又、皇后凱旋時、留守の兵達がこの松原で神の木(前出)から切り出した榊等を手に持ち、鉦(かね)・太鼓で喜び踊って出迎えたので、この海岸が舞松原となったという。新町名である。
I 名島
皇后西征時、船出する兵に郷里・姓名等を名乗らせ乗船させたので、黒崎の地が名島となったという。名島神社、腰掛岩、帆柱石、弁財天、名島城趾名島水上飛行場跡、岩見重太郎誕生の地碑等がある。
J 日守(ひもり)・・・糟屋郡粕屋町
皇后凱旋後、出産のため香椎から産屋(うぶや)に向かう途次、正午近くなって太陽が中天に輝いてきた。お産も間近に迫り、疲れて石にかけ一休みした。その石を日守石と言い、日守神社がある。
K 駕与丁(かよいちょう・・・駕籠を担ぐ人)・・・糟屋郡粕屋町
皇后、日守より今しばらく歩いてお腹が痛くなり、もう歩けない、と駕籠に乗ったので、この地名が付いたという。
L 旅石・・・糟屋郡須恵町
いよいよ日は暮れてきて、皇后が「未だ着かないか、わびしいなあ」と言ったので、「わびしい」が旅石になったという。
M 早見・・・糟屋郡宇美町
皇后が「もう待てない、未だか」と聞いたところ、お付きの者が指差して「早や見えたり」と言ったので、この地名が付いたという。
N 宇美(うみ)・・・糟屋郡宇美町
皇后12月14日、いよいよ産屋(うぶや)に着き、槐(えんじゅ)の木(子安木)にすがって誉田別(ほむたわけ・・・・後の応神)天皇を産んだので、産みが宇美となったという。
O 衣掛(きぬかけ)の森・・・糟屋郡宇美町
宇美八幡神社内にあり、皇后が衣服を掛けた、という楠の大木(幹周り、高さ共に20b)を言う。湯蓋の森(後述)と共に樹齢二千年余と推定され国(大正11年3月、指定)、県の天然記念物である。
P お膳立ての岩・・・西区小戸
皇后凱旋時、将兵に慰労の食膳を出したという岩。西区小戸のヨットハーバー傍らにある。
Q 相賀(おうか)・・・唐津市相賀
皇后、船より下りて陸路を歩行中、鹿に会ったので遏鹿(おうが)の駅となり、遏鹿が相賀となったという。
R 友の浦・・・呼子町大友
皇后が鞆(弓を射る時、左手に掛ける)をなくした場所なので鞆の浦となり、鞆が友となったという。
S 松浦郡・・・佐賀県
皇后、玉島の小河で食を取り、針を曲げた釣り針、飯粒の餌、裳の糸の釣り糸で「私が西方の財宝の国を求めうるならば、この針に掛かれ」という占いをして神意を問うと、珍魚(鮎)が釣れ、「あな希見(むづら)、又は、梅豆羅(めずら)しき物」と言ったのが訛って松浦になったという。 (鮎の語源ともいう)
2.応神天皇
八幡様(後の応神天皇)
誉田別(ほむたわけ・・・・応神)天皇が都の兄のカゴ坂王や忍熊王から放たれた刺客に暗殺されないよう、寝屋の周りに8本の旗を立て、まじないをしたため、誉田別天皇を八幡様というようになった。全国にある八幡宮は応神天皇が祭神である。近辺で有名な八幡は宇美八幡宮と筥崎八幡宮で、共に戦と安産の神である。八幡大菩薩は、奈良時代の神仏混交
の結果。
尚、応神天皇から歴史上の人物である、といわれている。
@ 湯蓋(ゆぶた)の森・・・宇美八幡宮境内(衣掛の森参照)天皇の産湯(うぶゆ)を使った、という場所にある楠の大木(幹周り14.5b、高さ18b)を言う。
A 産湯(うぶゆ)の井戸・・・宇美八幡宮境内天皇の産湯を使った井戸というが、現在は涸れている。
B 箱崎
筥崎宮の祭神である天皇のへその緒を筥に入れ、埋めたことからきた地名。又、その目印に植えた松が「筥松」であるという。
C ショウケ越え・・・須恵町から飯塚へ抜ける峠
なおも刺客を逃れるため、天皇をこっそり笊(ざる・・・・ショウケ)に入れ、山越えして大分へ行ったので、この名が付いたという。山越えした先の嘉穂郡に大分(だいぶ)八幡があり、ここにも産湯の井戸がある。
3.香椎の字のいわれ
@ 塩坂・・・香椎3丁目の横菰(よこまこも)池付近 天保年間、地震に伴う津波(御島神社の社が浸かったという)がここ まで来て止まったので、この名が付いたという。
A 馬立(またて)・・・下原3丁目。立花城時代の馬屋が会ったところを言う。
B 名切(なきり)・・・下原3丁目8〜10付近
立花城時代、に馬のえさを集積した所。(菜切りが名切となった)
C 町・・・下原1丁目17〜25付近
立花城時代、ここが城下町であったため町となった。藁葺きの緒大屋根だけで軒を作らなかった(槍むを立て掛けるため)という。
D 遠矢の原・・・香椎駅東3丁目付近
立花城より射た矢が一番遠く飛んできたところを言う。
E 不動ヶ浦・・・香椎6丁目
昔、八田七浦と言った時代、博多湾の入江の一つであったが、今は 不動ヶ池として残っている。
F 蟹ヶ浦(玄海苑)・・・香椎2丁目
昔は、この下まで海岸が迫っていて、蟹が多かったという。
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◆ 字名調 |
旧香椎地区(香椎、香住ヶ丘、香椎東、香椎下原の各小学校区及び 千早校区一部)の字(あざ)名を大字毎に表にした。福岡県の特徴として原の字を「はる」又は、「ばる」と呼ぶ場合がある。これは朝鮮系 言語の影響と考えられる。
大字 |
小字 |
長谷 |
梅木谷・高道・五反間・長谷・黒口・草場・谷口 |
香椎 |
早田・住吉・尾崎・堂園(どうぞの)・蔵世・石坂(いっさか)・古野・川添・坂本・梅田
用作・芹田・甑田(こしきだ)・蟹(かに)ヶ浦・門田・井ノ本・神戸・杭園(くいぞの)
丸山・寺熊・大日・明神・弥十谷・小作・外ヶ浦・塩坂・稲戸・別所浦・柿の木・下り坂
山の間・別所・亀ノ甲・弥勒寺・鐘搗田(かねつきでん)・不動が浦・倉谷・猪殺
(いぬころし)・ウグメカ谷・横射場・嵯峨原・蟻道(ありみち)・杉山・宿(宿)・清水田
(すましでん)・樋(とい)ノ本・御幸町(みゆきまち)・的馬場(まとばば) |
浜男 |
八尻(はっちり)・七田原(ななたばる)・畑江・脇田・遠矢ヶ原・六反田・井ノ本・尾崎
向口・江畑・屋敷・外新開・藤本・古園・原田・松葉谷・曲(まが)り・古森・笹原・内古森
鎧坂・(よろいざか)・兜塚(かぶとづか)・新開・長崎・片男佐(かたおさ)・御島(みしま)
新浜(しんはま)・御島崎・若葉・緑ヶ江
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下原 |
梅の木谷・蓼(たで)原・大道ナキ・秋山・北ヶ浦・後山・馬立(またて)・山ヶ下・名切
(なきり)・神田(かみでん)・町・尻田・高節・社(やしろ)田・向原・仲原・石原・有田・原
松本・塚ノ本・八尻
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唐原 |
鍬(くわ)崎・前田・表・高節・裏・火原・股掛・稲葉・引田・寺嶋・有田原・松本・琵琶橋
久保・大ハタケ・藪(やぶ)ノ下・走折・柳ヶ坪・前田原・長浦・丸尾・野添・丸尾崎
大新開・保木・外輪崎・大畠・番定久・浜田・向新開・唐ノ本・野池・狐ヶ谷
向(むこう)ノ山・大石ヶ浦・大谷・牧・船付ヶ・新開・片男佐
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◆ 郷土の史跡その他 |
旧香椎地区を主に周辺に存在する、又は、存在した史跡などについて記す。 |
1. 駅・学校・役場 |
@ 香椎駅
明治23年(1890年)9月28日、九州鉄道会社により久留米、赤間間67q開通。汽車賃は、上等81銭、中等54銭、下等27銭であった。初代駅舎(JR香椎駅)は、同43年11月20日に八代駅の古材を移転改築したものである。
A 旧小学校
明治5年(1872年)学制が施行。香椎(香椎、浜男、長谷)、秋山(下原、唐原)校が開校。その後、兜塚校や長谷校が民家にできたり大字毎に独立開校したが、明治18年11月香椎、浜男、下原、唐原を統合、浜男小学校となり、初めて校長が設けられた。場所は駅前の香椎保育所南側台地。22年4月尋常小学校に改称。34年12月現在地に新築移転。41年村立。45年尋常高等小学校。昭和6年長谷尋常小学校が廃止、香椎に合併。18年町立国民学校。22年教育令改正により町立香椎小学校、30年市立香椎小学校として改称し、現在に至る。
B 旧中学校
新制中学校は、昭和22年(1947年)香椎小学校に置かれた。同26年九州高校の場所(香椎駅東)に生徒父兄の勤労奉仕で新築移転。同39年現香椎第一中学校の場所(千早)へ新築移転。
現在は、人工の増加に伴い香椎第一、第二(香住丘)、第三(石坂)中学校まである。
C 香椎高校
大正10年(1921年)、郡立粕屋実業女子学校として創立。翌11年、県立香椎高等女学校。戦後、旧制私立香椎中学(男子校・・・現福岡女子大の場所)と合併、県立香椎高校(共学)となり、現在に至る。
D 旧香椎町役場
明治27年(1894年)8月22日、始めて役所式の香椎村役場庁舎(駅前1丁目17付近)が落成。大正5年(1916年)4月15日に新築完成した。昭和27年(1952年)2月9日、旧国鉄より買収した洋館(現在の消防署格納庫付近)に町役場が移転。同30年市に編入され香椎支役所と改称。支所と改称後、現在(平成3年)当時の香椎連絡所となる。
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2. 海と山 |
@ 香椎潟
旧香椎町の面する潟海を言う。明治27年から埋立を計画、大正昭
和と実施され、現在も続行中。西鉄山側の小路が海岸線であった。
駅前2丁目、御幸町、新浜町、千早、若葉、香椎浜等は埋立地。
大正12年編の糟屋郡誌に「頓宮なる濱(はま)殿の丘上より瞰(なが)
むれば眼下に展開せる広き潟にして、干潮の時は常に海人の貝磯菜
なとをあさる所なり、古(いにしえ)は此の香椎の濱より奈多浦、志賀
島、博多さては荒津なとのこと 浦に渡海せし地なるへしと云う、対
岸には奈多の白濱(しろはま)を望み海の中道なつかしく、大岳や西
戸崎を隔てて志賀の半島も呼はは答ふへく、東には樟樹に名高き立
花山を控へ、西には名島の岬突き出てて、波に滌(あら)はるる妙見
島のてを引くかと見ゆるもいと興あり」と記されている。
A 四千年の槇の木・・・樹齢は九大調査による
老の山の続き里城にあり、雌の木で根元に山の神の石碑がある。
根元より8本の幹に分かれた大木(根回り6.5m)である。
B 試し切りの岩
不老水の裏山にあり、神功皇后の刀を試し切りしたという石がある。
(実際は、終戦後、刀を刃引きした石ではないかと思われる)
C 稲荷の森
老の谷にあり、地の神を祭る稲荷神社(香椎宮境内に移転)の有っ
た所で、周囲には樹齢二千年以上の槇の木が数本、社の跡を囲んで
いる。
D 立花山
JR香椎駅の北東4qにあり、福岡市東区下原、新宮町立花、久山町
山田にまたがる。標高367b。南方尾根伝いに三日月山等があり、立
花山系を成している。山頂から博多湾を一望できる。北方の和白・新
宮方面からは二つの山だけが見えるので、昔は二神山と称した。
次の七つの峰を総称して立花山という。
@ 最高峰を井楼山(本城ともいう)と言い、立花城趾がある。
A 松尾山・・・本城の西、香椎方面から見て真中の2番目に高い
峰。立花口、原上、下原の境である。
伝記 : 松尾山々上に畳み2枚半位の平たい岩がある。昔の兵隊
は数を知らないので、この岩に乗るだけの人間を1郡とし
て兵を計った人升岩である。
B 白岳・・・松尾山の北側、下原と原上の境である。姫城と呼ば
れ、奥方の居城があった。
C 大ツブラ・・・本城の西、松尾山の南の下原にあたる。
D 小ツブラ・・・大ツブラの南
E 大一足・・・本城の東の峰で立花口にある。
F 小一足・・・大一足の東
半面は花崗岩、半面は秩父古成層からなる面白い地質である。地味
は肥えている。博多湾を足下に見下ろし、眺望よく、全山概ね大樟の
原生林(樟の自然林の北限という)で、台湾に次いで世界でも珍しい。
特別天然記念物に指定されている。山頂の平坦なところが立花城趾
で、所々に石垣が残り、瓦の破片が埋もれている。
伝記 : 本城の北に水の手があり、西中腹に砥石岩等がある。
今から約600年前、豊後の大友氏が城を築き、一族の根拠とした。
これを西大友といい、立花を氏とした。戦国時代になって、戸次鑑
連(べっきあきつら・・・立花道雪)が城主となり、毛利を防ぎ島津と
戦って武名を上げた。その養子、立花宗茂の時(1586年)島津義
久が大軍をもって攻めたが落城せず、豊臣秀吉の九州征伐に功
をたてた。
立花氏が柳川移封後、小早川隆景が城主となったが、水軍が主
力のため名島城を築き移った。その後、黒田長政が入国(1600
年)し、福岡築城に両城の石垣を使用したため、立花、名島ともに
廃城となった。
E 三日月山
別名陣山とも言う。標高272b。頂上は、樹木がなく見晴らしがよ
い。天智天皇時代の防人(さきもり)の陣屋跡と言われ、朝鮮式の古城
の跡があり、立花城時代には平陣屋があった。立花山〜三日月山の
ハイキング・コースとして手頃であり、元旦は、初日の出登山で賑わう。
伝記 : 旧暦12月22、23日頃、頂上から見る月が三っに見える時
があるので、三日月山の名が付いたという。
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3. 塚など |
@ 兜(冑)塚
香椎駅北約250b、県道(青柳街道・・・江戸時代の主幹で、参勤交代
に使用)のJR跨線橋手前(駅前1丁目3区)にある。兜型の岩であり
神功皇后凱旋じ、ここに兜等戦利品を埋めて供養したという。
伝記 : 享保年間(114代中御門天皇、1716〜35年)塚内か
ら兜型の方4尺高さ3尺、年輪のある松化石のような石を掘
り出した。博多の医師萩野玄庵が運び去って庭石としたとこ
ろ、祟(たた)りが多く、一家急病で死亡したので、博多の
人々が文化元年(119代光格天皇、1804年)頓宮の海
浜に持ってきていたが、昭和始めに海面埋め立てのため
里人が現在地に運んで安置したという。
又、新しい兜型に刻した石は、寛保年間(1741〜43年)
新宮町上府の農家、長源四郎が置いたものという。
A 耳塚
首塚とも言い、香椎線建設時、JR香椎駅の崖上に移した。神功皇后
凱旋後、新羅人の首、あるいは、耳を埋めて供養した塚という。
B 唐人(蒙古)塚・・・唐原
大陸から渡来した人々が唐原に一時居留した際、死亡した人々を祭
った所という。塚が二つほどあったが、現在はない。
2世紀前後、唐原と香椎が大陸との接点であり、その後、船の大型
化に伴い多々良、那の津、今津と西の方へ移動していったと思われる。
C 神功皇后御繋船(ふなつなぎ)跡・・・東区和白
皇后が休憩のため、松の木に船をつないで魚釣をした所という。松の
木の跡に石碑が立っている。この辺りは、昔、三苫水道に面していた。
D 元寇防塁跡
大分県で発見された資料によれば、舞松原から香椎小学校南の墓所
まで元寇防塁があった。昔、立花城、又は、福岡城へ移転の際の石と
見られていた中に防塁跡のものがあったと思われる。
E 元寇供養碑・・・香住ヶ丘牧の鼻
牧の鼻公園の岬に妙法寺という別院(総本山は、佐賀県東松浦郡厳
木町)があり、その境内に元寇で散った人たちの供養碑がある。
F 浪人墓・・・下原
宿場町入り口に存在した。通行中に行き倒れたたひびとを供養したと
いう。
G 松葉谷遺跡・・・松香台、九電運動場の中
仏教伝来当時の前方後円墳があり、土器から磁器へ移行した時代の
須恵器、壺、皿等が出土した。
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4. 神社
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@ 虚無僧藪
谷川の下流、双又(香椎)川の右岸にあり、水分けの神を祭る。神功
皇后は、ここで全ての洗濯をしたというが、今は、石のみが残る。
伝記 : 「ひんどう」・・・雨乞の行事のことを言う。
双又川の下流、香椎高校の横付近にひんどう(堰・・・せき)を
築いて、水を溜め、その堰を一気に押し流すような大雨を降ら
せるよう、神に雨乞いをした。
A 朽瀬神社・・・香椎宮末社
香椎宮入口付近、勅使道南側にある。本郷氏の祖神、武内大臣の子
の羽田矢宿禰を祭る。
伝記 : 荒神様で最近まで丑の刻参りがあった。
B 平野神社・・・末社
仁徳天皇を祭る。香椎宮のすぐ西、香椎川沿いにある。
C 高陪(こうべ)神社・・・末社
武内屋敷外側北西にあり、大臣から13代目大膳紀氏連(おおかしわ
できのうじつら)宿禰を祭る。大宮氏家の武内氏と木下氏等の祖で、
7月24日は子どもたちの接待がある。
D 印輪(いんやく)神社・・・末社
武内大臣の子、蘇我石川宿禰を祭神とする。石川家先祖である。
例祭は7月23日。
E 古野荒神
香椎2丁目古野の地に古くから祭られている荒神様で、祭神は、
須佐の男(すさのお)の命である。
F 大神(おおみわ)神社・・・旧摂社 上和白
祭神は、大物主神(四大夫の一人、大三輪大友主君の社神)。
『秋9月庚午己朔己即10日諸国に命じて、船を集いて兵を集むるも
軍卒集まり難し。神功皇后「神の心ならむ」と大三輪社を立て、刀予
を奉りたまふ。軍衆自ら集まる。』
G 大年神社(大蔵神社)
下原、三日月山登山口にある。五穀豊穣の神であり、雨乞いの神でもある。
祭神は、大年御年若年神。須佐之男之尊の子が大年(歳)神で、その子が
御年若年神である。4月3日が祭礼で、昔は草相撲があり、雨乞いの女相撲
も行われていた。
H須賀神社・・・末社 唐原(祇園宮)・長谷
須佐の男の(素盞鳴)命を祭る。唐原の例祭は4月15日、7月15日にあり
祇園の時、下唐原部落の山笠の一大行事が今でも行われている。
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