「さんぽ会」の”安部光征さん”からいただいた沢山の歴史資料を、私だけで目を通すには何かもったいない気がして皆様とご一緒に勉強していきたいと思い掲載し、公開することとしました。 安部さんは、香椎駅前1丁目に居住しており(現在は香椎地区地域整備事業のため香住ヶ丘に一時転居中)、歴史のいろいろな事柄に研鑽を積まれ活躍されておられます。 また、「さんぽ会」では名島、松崎グループでガイドボランティアとして皆様をご案内しておられます。 |
2013.11.09受信 |
香椎線 往年の石炭運搬線 香椎線は、糟屋炭田や筑豊炭田で産出された石炭を西戸崎港に搬出し、船舶で西日本各地に輸送するための鉄道として計画され、明治29年(1896)1月、東京や福岡などの企業家らが、運営母体となる博多湾鉄道を構想しました。筆頭株主、岩谷松平(「天狗煙草」で財を成した薩摩出身の煙草王)。社長は佐藤暢(薩摩出身)。糟屋郡志賀村西戸崎地区に石炭の積出港を建設し、明治33年(1900)2月に博多湾鉄道を創立しました。明治38年(1905)に西戸崎~宇美間の全線が開業します。その後、海軍が管轄する志免炭鉱に延びる貨物支線の建設を進め、大正4年(1915)までに酒殿から志免・旅石(糟屋郡須惠町)への支線を開通させ、軍用運炭路線としての性格を強めていきました。大正9年(1920)、海運業に参入し、社名を博多湾鉄道汽船に変更します。昭和初期には国有化がなされますが、いわゆる昭和4年(1929)、五大私鉄疑獄事件の影響で頓挫します。その後、鉄道会社乱立の弊害解消を目的とした陸上交通事業調整法により昭和17年(1942)に九州電気軌道に吸収合併されて西日本鉄道と改称されました。しかし、旧・博多湾鉄道汽船の鉄道路線は、運炭を目的とした軍事上の重要路線だったため昭和19年(1944)の戦時買収で国有化され、香椎線となりました。戦後も運炭路線という位置付けはかわりませんが、昭和30年代のエネルギー革命により炭鉱の閉鎖が相次ぎ、貨物輸送が衰退し、貨物支線も昭和60年(1985)までに全廃され、香椎線は旅客列車のみが運行されるようになりました。 ところで、特急「かもめ」が香椎線を走ったことがあるのを知っていますか。昭和28年(1953)3月から昭和32年(1957)6月まで、京都駅~博多駅で運転開始した特急「かもめ」で、客車は座席が一方向固定で、そのまま折返すと後ろ向きとなるのでそのためデルタ線(鉄道トライアングル)を形成していた運転方式を利用したものでした。 |
2013/11/02受信 |
小早川隆景と水軍 天正15年(1587)、豊臣秀吉から筑前国名島に転封された隆景は浦宗勝を小早川水軍の統括責任者で指揮下におき、村上水軍を味方に引き入れ、厳島の戦い(天文24年(1555))に勝利をもたらした。村上水軍は瀬戸内海の三つの島(能島(のしま)・因島(いんのしま)・来島(くるしま))を根拠地にして中世から戦国期にかけて活躍した海上武士団で、海賊衆とも呼ばれた。村上水軍の統領・村上大和守武吉(たけよし)はその宗家の能島村上氏の大将である。秀吉は天下統一のため瀬戸内海の制海権を握ろうとし、村上の力が是非とも必要で、武吉にあらゆる誘惑の手を差し延べた。来島の村上は秀吉の許に走ったが、能島と因島の村上は毛利氏との長年の友誼(ゆうぎ)を重んじて、最後まで秀吉に抵抗した。そのために天下をとってからも秀吉は武吉の所業を憎んで、徹底的に「海上賊船禁止令」に抵触したと罪をきせ、彼を追い詰めた。小早川隆景は武吉を秀吉の追究からかばいにかばい、処刑だけは免れるが、秀吉は赤間関から上方にかけて武吉を居らせてはならぬと隆景に厳命し、瀬戸内海より追放された。隆景は筑前国名島にて名島城(海城)を築くが、武吉を残すことが心配で彼を九州に伴なった(『萩藩閥閲録』)。だが九州の何処に移ったかは不明であった。 武吉が36歳の時(永禄4年)、毛利と大友の門司城の争奪戦で、武吉は毛利の命により、蓑島の島陰に屯ろしていた大友水軍を撃破したという事実がある(『萩藩閥閲録』)。能島の町の資料館に保管する古文書『村上水軍文書調査書』の中に、山口宗永(筑前名島城主小早川秀秋の家老・山口玄蕃)の書状があり、それに「武吉と長男掃部頭元吉は筑前国怡土郡かむり(加布里)村にあった玄蕃の屋敷に居た」ことが明確に書かれていた。
※昭和60年(1985)2月から7ヶ月間、朝日新聞の朝刊に城山三郎氏の『秀吉と武吉』という歴史小説が連載された。 福岡県地方史研究連絡協議会会報1994・3・26 「地方史に想う」 村谷正隆 |
名島小早川領直轄領(蔵入り) 朝鮮国に出陣していた小早川秀秋が慶長3年(1598)1月に帰国する。帰国後、秀秋は直ちに越前国に移される(「転封」)が、一説では蔚山(ウルサン)城での戦いの際の指揮官としての軽はずみな行動が原因とされている。しかし、実際には蔚山城での攻防戦以前に秀吉から帰国命令が出ているので、すでに早い段階で小早川秀秋領を豊臣政権が直接管理する、つまり直轄領(蔵入り)とする構想が浮上していたと見ることもできる。 ともかく、小早川秀秋の越前転封の結果、筑前一国・筑後四郡・肥前二郡は豊臣政権の直接管理下に置かれることになり、同年5月に石田三成が直轄領の代官に任命される。さらに、8月にはそのうち筑前九郡について、浅野長政を代官とする旨の秀吉の朱印状が発給されており、旧秀秋領は豊臣直轄領として石田三成および浅野長政によって管理され、兵糧補給の継続のため、前年に派遣されていた山中長俊の活動を最大限援助することになった。 官兵衛と福岡のゆかり 九州・福岡藩52万石の礎を築き、秀吉を天下人へと登らせた軍師・黒田官兵衛孝高。黒田家と福岡との関わりは、1600年関ヶ原合戦の戦功により黒田長政が福岡藩主となってから始まったと思われがちだが、官兵衛と福岡のつながりは、その13年前に始まっていた。1587年5月、薩摩の島津氏を下し九州を平定した豊臣秀吉は、官兵衛らに荒廃した博多の町の復興を命じる。官兵衛は前年より秀吉軍の先発隊として九州に来ており、1587年正月には、後に名島城主となる小早川隆景と連名で博多での軍勢や無法者の略奪を禁じ、まちの安全・安心を保障する禁制(法度)を出した。また、官兵衛は戦乱で荒廃した博多の復興事業の柱となる「博多町割り」、いわば都市計画を立案する。町は南北に築かれ、後に「博多塀」と呼ばれることになる瓦礫を素材に利用した塀を作り、町の端に寺を集めて防塁にするなど、巧みな町づくり今も残る。 |
2013.10.17受信 |
香椎宮本殿を再建した藩主黒田長順 香椎宮御本殿は、聖武天皇の神亀元年(724)の創建にして、建築様式は香椎造りであって、日本唯一の様式で重要文化財(大正11年(1922))である。現在の御本殿は享和元年(1801)、筑前藩主黒田長順(ながより)の遵式縮小の再建であり、周囲は透塀で囲われている。 (『香椎宮略誌』) その筑前藩主黒田長順は寛政7年(1795)2月6日に九代藩主斉隆(なりたか)の長男として福岡城に生まれたとされているが、斉隆が急死(同年10月6日)したため、斉隆の側室が生んだ女子を秋月藩主黒田長舒(ながのぶ)の第四子と取り替えて跡継ぎとしたという説もある。生後わずか9カ月にして第十代藩主となり、文化5年(1808)に14歳で元服して名乗りを長順(ながより)から斉清(なりきよ)と改めた。藩政は譜代の家老が合議で行い、長崎警備については秋月藩主黒田長舒が勤めた。 この時代、文化元年(1804)ロシア帝国の使節としてニコライ・レザノフが長崎に来航し、文化5年(1808)8月、長崎港にイギリス海軍の軍艦が侵入するフェートン号事件が発生した。 幼少の頃より斉清は、学問を好み、特に鳥類と本草などの博物学の研究に没頭した。また、斉清は幕府医館で有名な本草家でもある栗本瑞見(ずいけん)、桂川甫賢(ほけん)などと交際し、自らの屋敷で研究会を開き、本草家たちとの研究交流のなかから、大きな本草学の研究組織である赭鞭会(しゃべんかい)を育てていった。赭鞭会は、「神農が赭(あか)い鞭(むち)で以って草木を薙(なぎ)倒し百草(ひゃくそう、多くの草)を嘗(な)め薬草を定めた」という中国の故事にちなみ名付けられ、同好の大名や旗本が多く集まった。その中心メンバーの一人に富山藩主前田利保がいる。赭鞭会開かれた時期、斉清は眼病のため視力をほとんど失っていた。 文政2年(1819)、蘭学者で藩士の安部龍平(福岡糟屋郡名島の百姓の子で福岡藩士安部家の養子となっている)を直礼城代組に抜擢し、長崎詰役とした。斉清は文政年間にしばしば長崎出島を訪れている。平戸九代藩主の松浦静山は『甲子夜話』に、斉清が文政11年(1828)3月5日に後継ぎ黒田長溥(ながひろ)を連れて出島に入り、シーボルトの部屋に半日がかり滞在してシーボルトとの対話したことを書き残している。文政10年(1827)には安部龍平の蘭学の師である志築忠雄(しづきただお)が口述訳した『二国会盟録』(ネルチンス条約締結の過程をのべたもの)を亀井昭陽の序文をつけ提出させた。また、長溥自身も斉清にしたがい長崎オランダ商館を訪れ、シーボルトに会ったことについて、斉清が植物学に親しみ、長崎巡見の際には必ずシーボルトに面会して様々な問答を行っていたと、談話を残している。これらの問答を安部龍平に編集させ『下問雑載(かもんざつさい)』にまとめさせた。文政12年以降は長崎警固を養子長溥にあたらせた。天保2年(1831),安部龍平に自身の海防論を纏めた書、『海寇窃策(かいこうせっさく)』を編纂・補完させている。天保5年(1834)11月6日、隠居し、養子長溥に家督を譲った。 |
香椎宮を奉拝した大宰帥大伴旅人 香椎宮(廟)は古くから朝廷の崇敬厚く、祈願・奉幣等は宇佐神宮に次ぐ扱いを受け、伊勢神宮、気比神宮、石清水八幡宮と共に本朝四所と称された。 大伴旅人は神亀年間(724年―729年)に大宰帥(そち)として、大宰府に赴任し、筑前国主山上憶良(やまのうえのおくら)とともに筑紫歌壇を形成している。神亀5年(728)3月頃小野老(おゆ)が大宰大弐として着任、これを祝う宴(梅花の宴)が開かれている。 神亀5年11月、太宰帥大伴旅人(たびと)、大宰大弐小野老(おののおゆ)、豊前守宇努首男(うののおびとをひと)の三人は隼人(はやと)の乱を平げた功労者であり、この年は見事な御社殿が御造営成って四年目。11月6日の仲哀天皇の御祭(古宮祭)への参詣のため、(「香椎宮御由緒」)香椎宮へ参拝し、その帰り香椎潟に駒を止めてそれぞれ歌を詠んでいる。その三首の歌を万葉仮名で碑が刻まれている。明治21年(1888)、内大臣三条実美の揮豪で、総理大臣廣田弘毅の父親である石工廣田徳右衛門が刻んだ、「香椎潟万葉歌碑」が香椎宮頓宮の境内(坂道を上がった左手)に建っている。 この三首は『万葉集』(巻6・957~959)に 冬十一月、大宰の官人等、香椎の廟を拝み奉り、訖(を)へて、退(まか)り帰(かへ)りし時、馬を香椎の浦に駐(とど)めて、おのもおのも懐(おもひ)を述べて作る歌とある。 帥大伴卿 「いざ子ども 香椎の潟に白妙の 袖さえぬれて 朝菜摘みてむ」(巻6-957) 大弐小野老朝臣 「時っ風 吹くべくなりぬ 香椎潟潮干の浦に 玉藻刈りてむ」(巻6-958) 豊前守宇努首男人 「往き還り 常にわが見し香椎潟 明日ゆ後には 見む縁も無し」(巻6-959) 昭和初期までは、この丘のふもとまで波が打ち寄せ、丘上からは、まだ潮干狩りのできる遠浅の磯浜を見渡すことができた。 (「歌碑掲示板」) |
2013.07.08受信 |
御飯ノ山城(老の山城) 老の山城は、立花城のほぼ南約3kmのところにある標高90mの老の山(城の腰山ともいう)の山頂に築かれた山城です。史料によると、『筑前国続風土記』(貝原益軒)の中で「御飯(おい)の山古城」とし「香椎宮の東北、御飯の水(不老水)の上にある山なり。大友の臣一万田弾正か籠りし所と云。立花の端城なりと云。」と記され、又、『筑前国続風土記拾遺』(青柳種信)の中で「老の山古城」とし「香椎宮の東北、大宮司か宅(武内屋敷)の上の山也。峰二ツ有。東の高峰に平地二反許有。城ノ腰と云。東ノ谷を御倉(おくら)谷と云。南麓に隍(ほり)の址有。北の谷を笠懸(かさがけ)といふ。西の山下に里城の址有。」と記されています。この老の山城跡や南麓の谷一帯は「香椎B遺跡」に含まれた地域で、平成7(1995)年から10(1998)年3月まで福岡市教育委員会によって発掘調査が行われ、10世紀から15世紀前半までの溝で区画された屋敷、寺、墓などからなる町並みが検出され、当時の人たちが使っていた品々が大量に出土しています。これらの出土より、約700年前には城の原形があったようにおもわれますが、築城者については確かなことは判りません。香椎宮一体に影響力を持った人が築き、以後は立花城の出城として使われたと思われます。『古代・中世の香椎上巻』に「700年ほど前というと、蒙古襲来に際しての物見の場が設けられたものが、山城へ発展していったのではないかと考えられる。」とあります。こうしてこの山城は対外的な防衛拠点として博多湾東部ににらみをきかしていたものと思われ、それがのちに大友氏の筑前での防衛の拠点として機能していたが、手狭になり、規模の大きな立花城が築かれたことから、その出城になったと思われます。と記されています。 現在の福岡市東区香椎台5-10の「おいの山公園」一帯がそれにあたります。 |
香椎宮貞明皇后行啓異聞 勅祭社香椎宮は史によると、勅使奉幣使が参向されたのは聖武天皇天平9(737)年から、平安、鎌倉時代を経て吉野時代、後醍醐天皇元応3(1321)年までに60余回で、以後は天下穏やかでなくなり、奉幣礼も絶えました。440余年後櫻町天皇、延享元年(1744)八代将軍吉宗になって、昔を偲ばれて勅使参向再興がなされました。以後61年目の甲子の年に奉幣されることに定められました。依ってそれ以降は光格天皇、文化元年(1804)甲子、3回目は孝明天皇、元治元年(1864)甲子に行なわれています。次の甲子の年は大正13年(1924)に当たり、その年を心待ちにしていた当宮では、皇后陛下の御使差遣、続いて皇后御親拝の事が報じられました。即ち大正10(1921)年皇太子裕仁(ひろひと)親王(昭和天皇)が海外御巡遊の途に上らせられることになり、皇后陛下(貞明皇后)は同年2月27日、特に御使三條男爵を差遣されて、殿下御外遊安全の御祈願をなされ、次いで御帰朝の後、同年9月14日更に御報賽の御使として同男爵を遣わされましたが、大正11(1922)年3月21日には、かしこくも皇后御親拝、金色燈籠二個の御奉納をされました。次いで大正13(1924)年甲子の参向もあり、「大正十三年五月二十九日付兵第一六〇五号を以て照会の官幣大社香椎宮に勅使参向の件、本年度より毎十年に勅使を参向せしめらるる旨仰出され候。」(『香椎宮文書』)とある。この年以後は宇佐神宮と共に、10年目勅使派遣のことが新しく仰せ出されましたが、特別に昭和19(1944)年10月並びに翌20(1945)年8月に奉幣使の参向がありました。「昭和26(1951)10月には天皇陛下並びに秩父宮、高松宮、三笠宮、三殿下より、貞明皇后の御遺品、銀御紋章附莨箱を下賜せられました。」(『香椎町誌』) 貞明皇后が香椎宮に御親拝された3年前、大正8(1919)年6月10日に、皇太子(昭和天皇)親王と久邇宮(くにのみや)家の長女良子(ながこ)女王との婚約が成立しましたが、翌年、良子女王(のちの香淳皇后)の母方の島津家に色覚異常の血統があることが判明し、家系に色盲の遺伝があるとして、元老・山縣有朋らが女王及び同宮家に婚約辞退をせまった事件(「宮中某重大事件」)がおきています。久邇宮家はこれに強く反発し、また東宮御学問所御用掛杉浦重剛(しげたけ)らは婚約取消しは人倫に反するとし、山縣が皇室の慶事に干渉したことを激しく非難されました。これは、宮中での薩長両派の勢力争いや、玄洋社、頭山満など国粋主義の人間が同調したり、山縣攻撃等も加わって、政治問題に発展し、結局、大正10(1921)年2月、宮内省から皇太子妃内定に変更はない旨が発表されて問題は解決しました。この事件で山縣の権威は大きく失墜し、一度は元老と爵位返上の意向も伝えられましたが慰留されています。 その後3月には皇太子訪欧。民間人、頭山満は皇太子成婚の饗宴に招かねていますし、日本の政界においても特異な地位を築いています。 |
宗祇の見た香椎宮 室町時代、山口を拠点にした守護大名大内政弘(まさひろ)の招きで連歌の大家・飯尾宗祇(いいおそうぎ)が文明12(1480)年6月から翌13(1481)年春ごろまでの約10か月間、山口に滞在していたが、政弘が治めていた筑前国の名所(歌枕)を訪ねる旅を、文明12年9月6日に山口を出発、大宰府や筥崎、志賀島、香椎などを巡り、10月12日山口へ帰っています。その36日間のことを記したのが『筑紫道記(つくしみちのき)』です。時に宗祇60歳の時でした。11年の長きに及んだ応仁・文明の乱が終わり、豊前・筑前両国を平定した大内氏領国の平和をことほぐ紀行文になっています。この旅のなかで当時の博多の様子を活写していますし、各地の名所風景、神社仏閣の様子のほか、宗祇の平和観、文学観、人生観や時には政治への発言なども記されています。 宗祇は、文明12年9月6日に山口を出発し、長門の豊浦(とよら)・赤間関(あかまがせき)から九州の若松に上陸、芦屋・小屋瀬を経て、9月16日に大宰府天満宮に到着しています。9月20日には大宰府より博多に到着し、浄土宗竜宮寺を宿所にして、10日の間、博多の名所をめぐり、連歌会を行う日々を送っています。博多は、大船が入港し町屋が軒を争うほど繁栄していたと書き、志賀島に船で渡り、姪浜を過ぎ、生の松原に向かい、楼門の崩れた博多の住吉神社などを訪ね、その後、再建中の筥崎宮、仮殿の香椎宮を見て、山口への帰途についています。香椎宮を訪れたのは、10月3日のことです。香椎宮について書かれている内容を『古代・中世の香椎上巻』にて注解釈しています。文から推測すると、ずいぶんと香椎宮がさびれていたように思われる。「御殿は造営半ばにもならで・・・・」とあるが、香椎宮の本殿などが焼失したのは『香椎宮編年記』によれば、宗祇が訪れた11年前の文明元(1469)年11月7日のことで、将軍足利義政が造営を命じ、翌年の12月19日に造替式をもって遷宮したことになっている。当時の大宮司は三苫親宣であると編年記に記されている。「神司の者共、すさまじげにて物言ひ交すも哀なれば」とあるが、都振りに慣れ親しんでいた宗祇には、香椎の神官たちの立ち居振る舞いやことば(方言)が「すさまじげで哀れに」見えたり、聞こえたりしたのではないだろうか。「神の御祓(みそぎ)に」は『新古今和歌集』に収められた読み人知らずの歌のことで、綾杉だけが盛んに生い茂っているといっているが、綾杉は香椎四景の「祥端杉」とされ、古来香椎の神木として信仰を集めていた。 また宗祇は、香椎宮の祭神は聖母(大菩薩)と八幡(大菩薩)であり、同じ神であるのに香椎宮で聖母と号しているのを筥崎宮では神功皇后と申しているとし、神木も筥崎は松であると、両社を比較して書いている。筥崎宮を参拝したのは香椎宮参詣の前々日の10月1日のことで、神宮寺の勝楽寺に宿を取っているが、筥崎宮の社頭は神々しくて風情があるとし、神主の応対も良かったようだ。2日には、大内氏の家臣杉弘相も出席して連歌の会も催されている。香椎潟は博多湾の東部にあたるが、鎌倉時代の蒙古軍の退散にちなんでか、香椎四景では「降敵涛」とされている。「磯菜摘海士(つむあま)の子共」は『万葉集』にある大伴旅人の歌によっている。旧暦の10月とあって海辺には人影も見えなかったのであろう。以上が宗祇の見た香椎の風景であるが、当時の知識人の香椎観を窺い知ることができて興味深い。と結んでいます。 |